- 1.幕府は既に弱体化していた
- 1-1幕府の絶対的地位が揺らいだ「禁門の変」
- 1-2対外問題でも信用失墜
- 1-3海舟の共和制国家への願い
- 2. 江戸無血開城前史
- 2-1薩長同盟の成立
- 2-2大政奉還
- 2-3鳥羽・伏見の戦い
- 3.江戸無血開城
- 3-1江戸城で慶喜がした事は?
- 3-2慶喜を信じない西郷
- 3-3混乱する江戸
- 3-4攻撃中止の条件を突きつける西郷
- 4.江戸無血開城への会談
- 4-1次世代まで恨みは続いた
- 4-2会談までの流れ
- 4-3会談の内容
- 4-4最後のチャンス!海舟は江戸を守れるのか?
- 4-5無血開城の舞台裏
- 4-6江戸無血開城の決着
- 江戸無血開城の成功には、勝海舟と西郷隆盛の信頼関係があったからこそ
この記事の目次
1.幕府は既に弱体化していた
西郷隆盛と勝海舟との会談で、江戸城が新政府軍に明け渡される事が決まり、江戸の町が火の海に飲まれる事はなかったと、両者の英断が起こした奇跡として語られています。どういう歴史の流れから、幕府が血祭りにあげられる事態になったのでしょう?当時の江戸幕府の姿を見てみましょう。
1-1幕府の絶対的地位が揺らいだ「禁門の変」
江戸幕府の崩壊を世に知らせしめたのは、平治元(1864)年7月19日の「禁門の変(別名:蛤御門の変)」でしょう。京都の警備を担っていた幕府軍(京都守護職松平容保率いる会津藩)と長州藩兵が、京都御所付近で激突します。幕府軍は薩摩藩の助けを得る事で、長州藩を退けました。
この戦いは、京都市中の約3万戸を焼き、市街戦にまで発展し京都を焼け野原とします。尊王攘夷を掲げ朝廷に支配的な影響力を有していた長州藩は、前年の「文久三年八月十八日の政変」で、京都を追い出された失地回復を掛けた必死の戦いに敗れるも、京都を焼け野原にする事で、もはや幕府には国を統治するだけの力がない事を立証したのです。
こちらの記事もおすすめ
マジメさと責任感が招いた会津の悲劇?「松平容保」の生涯をわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
1-2対外問題でも信用失墜
嘉永6(1853)年のペリーの黒船が浦和に来航し、「日米和親条約」を結び開国をしたばかりでした。その時に貿易までは許さなかったのに、ハリスがしつこく通商条約の締結を迫り、安政5(1858)年に幕府は天皇の承認を待てず勝手に調印したのです。
あまりにも不平等な条約への調印に、幕府の信頼は失墜。外国船の打払いを強行する攘夷派の反発も強くなり、西洋列強の圧力も幕府を血祭りにあげる要因になったのです。
勝海舟は、「外圧に対抗するには、諸藩が対等の立場で話し合い、協力しなければならない。纏まって望めば、恥をかかずに外交との交渉事も上手くいく。」と思っていたようです。
こちらの記事もおすすめ
日本はどのようにして開国していったのか?「日米和親条約」と日本初の日米交渉を探る – Rinto~凛と~
1-3海舟の共和制国家への願い
禁門の変から2ヶ月が経過したころ、西郷隆盛は長州の処分や外圧への幕府の対応に困り果て、海舟のもとに訪れています。実は、蘭学の知識を得ていた海舟は、幕府軍艦奉行をしており、近代的な軍隊を目指す改革派だったのです。
この時、海舟が西郷に発した一口は、「幕府内は私利私欲が渦巻き、役人が威張りかえっている。既に幕府には、政権を背負って立つ力はない。」と語ったとか。海舟にはアメリカへ遊学の経験があり、民衆が身分に左右されず選挙権を持ち政治に参加する、「共和制国家」のあり方に魅了されたようです。世襲制は古い考えであり、対外政策は行き詰ると感じていたのでしょう。
「幕府の役人が、堂々と幕政を否定するとは…。」と、西郷は思ったとか。海舟が「全ての藩が連合を組み、新しい国づくりを目指すべき」との考えを打ち明けた事にも驚愕したようです。親友大久保利通への手紙に、海舟の事を「実に驚き入り候 人物。…ひどくほれ申し候。」と記したようです。海舟の根っからの江戸っ子気質に、惚れ込んだというべきでしょうか?
こちらの記事もおすすめ
幕末・維新で大活躍した維新三傑の一人「西郷隆盛」を元予備校講師がわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
2. 江戸無血開城前史
月岡芳年 – 『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』 (http://morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/U564.html), パブリック・ドメイン, リンクによる
無血開城に至るまでには、薩長同盟の成立や王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦いなど、さまざまな場面で歴史が動いています。無血開城時、幕府側の代表となる勝海舟は、共和政治が主力になると考えており、連合政治の実現に必要なら、倒幕も仕方ないと考えていたとか。この章では、江戸無血開城の前史をおさらいしてみましょう。
2-1薩長同盟の成立
禁門の変で死闘を繰り広げ犬猿の仲となっていた、薩摩と長州を仲直りさせた人物は、海舟の弟子だった坂本龍馬(さかもとりょうま)ですね。薩摩は倒幕論に湧いており、いつの間にか朝敵とされた長州は、幕府に第一次長州征伐を実行され窮地に立たされていたのです。龍馬が和解成立を目指し選んだのは、薩摩は西郷隆盛で長州は桂小五郎でした。
銃器が欲しい長州に対し、兵糧米を欲した薩摩は合意に達します。感情論には触れず、利害関係を上手く利用したのです。西郷はこの時、血で血を洗う死闘も水に流し共に手を組み、強敵幕府を倒そうと薩長同盟に同意しました。
同盟を結んだ薩摩は、幕府からの二次長州征伐への出兵要請を反故にします。新兵器を手に入れた長州は、近代的装備と熟練の戦術により幕府軍にことごとく勝利しました。14代将軍徳川家茂が大坂城で病死し、江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜が征伐を中止したため、長州が完全勝利したのです。これにて、薩長は幕府の支配下から脱却します。
こちらの記事もおすすめ