幕末日本の歴史江戸時代

「江戸無血開城」とは?奇跡だった?!勝海舟の目線で解説

江戸の町は、西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる官軍の総攻撃により、火の海に包まれるはずでした。その江戸を守った功労者は、勝海舟(かつかいしゅう)といわれています。江戸幕府が崩壊し江戸城が新政府軍に渡るまでのプロセスは、ドラマや映画、小説などで、実に多くの作品が誕生しており、多種多様なとらえ方がされています。江戸の危機は、どのように救われたのでしょう。今回は、幕末最大の謎とされる「江戸無血開城」を勝海舟の目線から纏めてみました。

1.幕府は既に弱体化していた

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西郷隆盛と勝海舟との会談で、江戸城が新政府軍に明け渡される事が決まり、江戸の町が火の海に飲まれる事はなかったと、両者の英断が起こした奇跡として語られています。どういう歴史の流れから、幕府が血祭りにあげられる事態になったのでしょう?当時の江戸幕府の姿を見てみましょう。

1-1幕府の絶対的地位が揺らいだ「禁門の変」

江戸幕府の崩壊を世に知らせしめたのは、平治元(1864)年7月19日の「禁門の変(別名:蛤御門の変)」でしょう。京都の警備を担っていた幕府軍(京都守護職松平容保率いる会津藩)と長州藩兵が、京都御所付近で激突します。幕府軍は薩摩藩の助けを得る事で、長州藩を退けました。

この戦いは、京都市中の約3万戸を焼き、市街戦にまで発展し京都を焼け野原とします。尊王攘夷を掲げ朝廷に支配的な影響力を有していた長州藩は、前年の「文久三年八月十八日の政変」で、京都を追い出された失地回復を掛けた必死の戦いに敗れるも、京都を焼け野原にする事で、もはや幕府には国を統治するだけの力がない事を立証したのです。

1-2対外問題でも信用失墜

嘉永6(1853)年のペリーの黒船が浦和に来航し、「日米和親条約」を結び開国をしたばかりでした。その時に貿易までは許さなかったのに、ハリスがしつこく通商条約の締結を迫り、安政5(1858)年に幕府は天皇の承認を待てず勝手に調印したのです。

あまりにも不平等な条約への調印に、幕府の信頼は失墜。外国船の打払いを強行する攘夷派の反発も強くなり、西洋列強の圧力も幕府を血祭りにあげる要因になったのです。

勝海舟は、「外圧に対抗するには、諸藩が対等の立場で話し合い、協力しなければならない。纏まって望めば、恥をかかずに外交との交渉事も上手くいく。」と思っていたようです。

1-3海舟の共和制国家への願い

禁門の変から2ヶ月が経過したころ、西郷隆盛は長州の処分や外圧への幕府の対応に困り果て、海舟のもとに訪れています。実は、蘭学の知識を得ていた海舟は、幕府軍艦奉行をしており、近代的な軍隊を目指す改革派だったのです。

この時、海舟が西郷に発した一口は、「幕府内は私利私欲が渦巻き、役人が威張りかえっている。既に幕府には、政権を背負って立つ力はない。」と語ったとか。海舟にはアメリカへ遊学の経験があり、民衆が身分に左右されず選挙権を持ち政治に参加する、「共和制国家」のあり方に魅了されたようです。世襲制は古い考えであり、対外政策は行き詰ると感じていたのでしょう。

「幕府の役人が、堂々と幕政を否定するとは…。」と、西郷は思ったとか。海舟が「全ての藩が連合を組み、新しい国づくりを目指すべき」との考えを打ち明けた事にも驚愕したようです。親友大久保利通への手紙に、海舟の事を「実に驚き入り候 人物。…ひどくほれ申し候。」と記したようです。海舟の根っからの江戸っ子気質に、惚れ込んだというべきでしょうか?

2. 江戸無血開城前史

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月岡芳年 – 『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』 (http://morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/U564.html), パブリック・ドメイン, リンクによる

無血開城に至るまでには、薩長同盟の成立や王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦いなど、さまざまな場面で歴史が動いています。無血開城時、幕府側の代表となる勝海舟は、共和政治が主力になると考えており、連合政治の実現に必要なら、倒幕も仕方ないと考えていたとか。この章では、江戸無血開城の前史をおさらいしてみましょう。

2-1薩長同盟の成立

禁門の変で死闘を繰り広げ犬猿の仲となっていた、薩摩と長州を仲直りさせた人物は、海舟の弟子だった坂本龍馬(さかもとりょうま)ですね。薩摩は倒幕論に湧いており、いつの間にか朝敵とされた長州は、幕府に第一次長州征伐を実行され窮地に立たされていたのです。龍馬が和解成立を目指し選んだのは、薩摩は西郷隆盛で長州は桂小五郎でした。

銃器が欲しい長州に対し、兵糧米を欲した薩摩は合意に達します。感情論には触れず、利害関係を上手く利用したのです。西郷はこの時、血で血を洗う死闘も水に流し共に手を組み、強敵幕府を倒そうと薩長同盟に同意しました。

同盟を結んだ薩摩は、幕府からの二次長州征伐への出兵要請を反故にします。新兵器を手に入れた長州は、近代的装備と熟練の戦術により幕府軍にことごとく勝利しました。14代将軍徳川家茂が大坂城で病死し、江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜が征伐を中止したため、長州が完全勝利したのです。これにて、薩長は幕府の支配下から脱却します。

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