- そもそもなぜ原爆が落とされる事になったのか
- アメリカの勝利の決定打は原爆投下という説は正しいの?
- 原爆投下をせざるを得ない状況にしたのは日本のせいなの?
- 決定打はソ連の参戦とする説
- 原子爆弾を使うという選択肢
- ポツダム会議開会の前日に、最初の原爆実験がおこなわれていた
- ポツダム宣言の3日前に、原爆投下命令書が発令されていた!
- もともと投下先には京都が入っていた!?
- 広島に原爆投下…そしてその三日後に長崎に原爆が投下される
- 8月9日の最初の目的地は長崎ではなかった!
- 異なるタイプの2発の投下がセットになっていた!?
- 標的は庶民密集地―犠牲者の9割以上は民間人でした
- 日本政府は、原爆投下に対する抗議の声明文を出しました
- 唯一の原爆批判声明文
- 原爆のない世界に
この記事の目次
そもそもなぜ原爆が落とされる事になったのか
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原子爆弾。それは世界で唯一使用された非人道的な核兵器です。これが使われた時一瞬にしてなんの罪もない民間人数十万人がなくなってしまいました。
原爆が落とされた理由には当時の複雑な世界情勢や国々の外交問題が絡んでいます。アメリカのトルーマン政権は「早く日本との戦争を終らせるためだった」といいますが、実際のところはどうだったのでしょうか?
日本軍国主義を打ち破るための「必要悪」の行為だったのでしょうか?それとも、不必要な行為であり「戦争犯罪」となるのでしょうか?
アメリカの勝利の決定打は原爆投下という説は正しいの?
原爆投下によって1945年末までに広島で14万人、長崎では7万人の死亡者が出たとされています。原爆関係の死者数は21万人。この犠牲者のおかげで早く戦争が終わり、日本とアメリカをあわせて200万人の命が救われたのだから「大きな悪」に打ち勝つための「小さな悪」として是認されるというのがアメリカの主張です。
連合国は7月26日にポツダム宣言を発しました。この時日本に降伏を促したのですが、当時の内閣政府はこの宣言を「黙殺する」と称して、事実上「拒否」したのです。
この日本政府の理不尽な対応に対する報復として原爆を投下した。投下先についても軍事施設を主要なターゲットに選んだのだから、日本の戦争継続能力を破壊するための措置として認められる、としています。
原爆投下をせざるを得ない状況にしたのは日本のせいなの?
日本の権力者が侵略戦争を始めただけでなく、降伏をためらったから原爆投下を招いてしまったのであり、このような権力者の責任を追求しなくていいの?という意見が日本人の中でありました。
しかし、この日本の戦争責任につけこむような形でおこなった原爆投下も許しがたい戦争犯罪になるんじゃないのか?
戦争を早く終わらせるために原爆を投下したのではなく、二発を投下し終える前に降伏を許さない状況にしたのが事の真相ではないのか?という研究書が多数出版されています。
決定打はソ連の参戦とする説
日本の降伏に決定的な役割を果たしたのは、原爆投下ではなくて、ソ連が参戦し満州の日本軍が総崩れとなったからで、
このままだと日本全土に侵攻され、天皇一家が処刑されてしまうという危機意識が日本を降伏に追いやったという説もあります。
原子爆弾を使うという選択肢
ここまで原爆投下の経緯を簡単にご紹介しましたが、ここで一度、原爆というおそろしい兵器を使うという選択肢になった経緯をまとめていきます。
ポツダム会議開会の前日に、最初の原爆実験がおこなわれていた
ポツダム会談開催予定日前日の7月16日に、米軍はニュー・メキシコ州アラモ・ゴードの地で最初の原爆実験を成功させました。
プルトニウム239を使い、砲身型よりも複雑な装置を必要とする爆縮型の原爆を核爆発させました。7月17日の開会にあわせてポツダムに到着していたトルーマン大統領は、爆縮型「スーパー」兵器の実験成功を聞いて安堵したそうです。
「原爆を有効に使うと、ソ連参戦の前にソ連の力を借りずとも、日本を降伏させられるかもしれない。いずれにせよソ連を威圧できる武器が手に入った」と考えたのでしょう。
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ポツダム宣言の3日前に、原爆投下命令書が発令されていた!
日本を降伏させるための文書作成を主題としたポツダム会議は、アメリカによる原爆実験の成功を見届けたうえで実験の翌日の7月17日に開会されました。
参加した米・英・ソ連・中国の4首脳のうち,、ソ連を除いた3カ国は7月26日に「日本への降伏条件を明らかにして降伏を勧告」したポツダム宣言を発し、8月2日に閉幕しました。
原爆計画の責任者のグローブズ少将は、ワシントンで以下のような原爆投下命令書を書いています。
「カール・スパーツ将軍閣下へ 第20空軍509混成軍団は1945年8月3日以降、天候が有視界爆撃を可能にさせ次第、最初の特別爆弾を広島・小倉・新潟・長崎のうちの一つの標的に投下せよ。……準備が完了すれば、直ちに2発目の爆弾を上記の標的に投下せよ。」
出典:『なぜ米国は2発の原爆を日本に投下したのか ―投下70周年の時点での再考―』 藤岡惇
その2日後、すなわちポツダム宣言を日本に通告する1日前の7月25日に、ポツダム滞在中のトルーマンは、投下命令書に署名しました。
ポツダム宣言が公表される前に「8月3日以降天候が許すかぎりできるだけ早い時期に」原爆を投下するという方針の方が、先に決まっていたのです。
これは一体どういうことでしょうか?
つまりは、日本政府を「ポツダム宣言を黙殺ないし拒否する」状態に追い込んだ方が「原爆投下もやむを得なかっただろう」という世論を高めて、投下を正当化することができます。
そのため回答期限を設けないなど、ポツダム宣言が「降伏を迫る最後の勧告」であるという印象を消し去ろうとしていたというわけですね。