遠い離島・八丈島への流罪
ただ、秀家が島津に匿われているという噂が広まると、島津氏も庇いきれなくなってしまいます。秀家は「これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」と島津氏を去り、徳川方に引き渡されました。
本来ならば死罪が当然ですが、ここで、妻・豪姫の実家である前田家や、島津氏からも助命嘆願がなされます。そのため、家康もさすがに命を奪うことはできず、秀家に「八丈島への流罪」という処断を下したのでした。そして秀家は息子たちを伴い、遠く離れた八丈島へと流されていったのです。慶長11(1606)年のことでした。
人生の半分以上を八丈島で過ごすことに
「浮田」と姓を変えた秀家は、亡くなるまでの約50年という月日を八丈島で過ごしました。決して暮らしは楽ではなかったようで、島の代官に宴会に招かれた際には、ごちそうされた米をおにぎりにして持ち帰り、家の者たちに与えるというような暮らしぶりだったそうです。また、嵐に遭って流れ着いた福島正則の家の船からは酒を恵んでもらったこともあったとか。
一方、関ヶ原の戦いの後、屋敷で会ったのが今生の別れとなった妻・豪姫は、再婚することなく生涯を終えました。
そして秀家はさらに長生きし、明暦元(1655)年に84年の生涯を全うしたのです。
栄光と転落の両方を味わった貴公子・宇喜多秀家
父に早くに先立たれたものの、何不自由なく育ち、戦場に出れば武功を挙げ、ずっと光あふれる場所を歩き続けてきた秀家。しかし関ヶ原での敗戦によってそれは一変し、思いもかけなかった生活に転落することとなります。ただ、伝えられているように、つましい生活を送りながらもそこに喜びを見出し、天寿を全うすることができたのは、鷹揚で根っからポジティブな彼の性格が幸いしたのだと思いますね。