室町時代戦国時代日本の歴史

輝かしい将来を約束されたはずの宇喜多秀家が遠い離島で最期を迎えたわけ

家臣たちが蜂起!失敗した秀家の対応

しかし秀家はこれに対して効く耳を持ちませんでした。そのため、宇喜多三老世代の息子たちである戸川達安(とがわたつやす)岡貞綱(おかさだつな)らは、次郎兵衛を襲撃してしまったのです。次郎兵衛は前田屋敷に逃げ込んで難を逃れましたが、戸川と岡は大坂にある宇喜多屋敷を占拠するという暴挙に出てしまいました。

これに際して、秀家の処断は失敗だったと言っていいと思います。若さが出たのかもしれませんが、彼は戸川を暗殺しようとしたのです。父以来の譜代の家臣にそんなことをするとは、主君としての力量を問われます。しかも、秀家の従兄弟・宇喜多詮家(うきたあきいえ/後の坂崎直盛/さかざきなおもり)が戸川をかくまい、秀家と対立してしまったのです。

次々と家臣たちに去られるという大失態

一説ではありますが、この裏には様々な事情もあったとされています。

秀家の妻・豪姫がキリシタンだったため、秀家が家臣たちに改宗を迫ったとか、秀家が贅沢を好み、税を重くしたとかなど、まことしやかな噂が流れました。鷹を100羽飼っていた秀家が、鷹の世話のためだけに300人もの使用人を雇ったとも言われています。

これが本当ならば、譜代の家臣たちや従兄弟の詮家が反発するのも仕方ありません。良く言えば鷹揚、悪く言えば坊ちゃん育ちだった秀家の悪い面が出てしまったのかもしれません。

そして、秀家は事態を収拾できないまま、ついに徳川家康直々の調停となったのです。結果、戸川や詮家は命までは奪われず、他家預かりの処分となりました。

しかし、これまで秀家を支えてきた重臣のひとり・花房正成(はなぶさまさなり)が出奔し、譜代の家臣たちの中にも、秀家を見限って家を去る者が続出してしまいました。このため、宇喜多家にとっては大ダメージとなってしまったのです。今まで失敗らしい失敗をしてこなかった秀家にとって、ほぼ初めての大きな失敗でした。

敗軍の将となり…八丈島へと流罪に

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関ヶ原の戦い西軍に属した秀家は、敗北後は逃亡を続け、九州にまで流れ着きました。しかし結局徳川方に引き渡され、死罪は免れるも八丈島へ流罪を申し付けられます。本土から遠く離れた離島で、秀家は約50年もの年月を過ごすことになったのでした。

関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗北を喫する

宇喜多騒動がようやくしずまったかと思うと、それもつかの間、今度は豊臣政権内部の対立が表面化しました。石田三成をはじめとした官僚肌の武将たち「文治派(ぶんちは)」と、加藤清正ら戦場で活躍する武将たち「武断派」の争いです。

やがてそれは石田三成の挙兵へとつながり、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きました。石田三成の西軍、徳川家康の東軍共に「豊臣秀頼のために、君側の奸を取り除く」というスローガンを掲げていたのですが、秀家は西軍に加わることを選びました。おそらく、懇意にしていた武将たちは西軍だったこともありますし、もしかすると、出奔した家臣たちが軒並み家康に召し抱えられていたということも引っかかったのかもしれません。

西軍では最大兵力となる1万7千もの軍勢を率いて天下分け目の合戦に臨んだ秀家ですが、小早川秀秋の裏切りによって西軍は壊滅。秀家は乱戦の中で行方不明となってしまいました。

逃亡を続け、薩摩に潜伏する

石田三成など西軍首脳は捕らえられて斬首となりましたが、秀家は山の中をひたすら逃げていました。その時、落ち武者狩りに出会いましたが、その相手に対して自ら宇喜多秀家だと名乗り、家康に引き渡してもいいと潔い態度を見せると、反対に相手に同情されて40日間も匿ってもらった上、大坂の屋敷に連れて行ってもらったのです。秀家にはきっと何らかの人間的な魅力があったのでしょう。

屋敷では最愛の妻・豪姫と対面した秀家ですが、留まるわけにはいきません。妻と別れると、今度は薩摩(さつま/鹿児島県)に向かい、島津氏に匿ってもらい、潜伏生活に入ったのです。

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