室町時代戦国時代日本の歴史

輝かしい将来を約束されたはずの宇喜多秀家が遠い離島で最期を迎えたわけ

秀吉の猶子となり、豊臣一門となる

秀家とってはさらに光栄なことに、秀吉は彼を猶子として迎えようと提案しました。そしてその頃元服した秀家は、妻を迎えることになりますが、その相手もまた、申し分のない姫君だったのです。

彼女の名は豪姫(ごうひめ)。秀吉から絶大な信頼を寄せられる親友・前田利家の四女で、秀吉がわざわざ養女としてから秀家へと嫁入りさせたのです。2人とも秀吉と正室・おねのお気に入りで、晴れて秀家は豊臣氏から一門として扱われるようになったのでした。

血がつながっていないにもかかわらず、天下人の秀吉に気に入られるほどでしたから、秀家はおそらく性格の良い人物だったのでしょう。加えて、当時としてはかなり高い身長170センチという堂々とした体躯を持ち、整った顔立ちでもありましたから、目をかけられたのもうなずけますね。

数々の大きな戦に参加して経験を積む

秀吉に近しい側近となった秀家は、以後、秀吉の天下取りへの合戦の数々に参加します。天正12(1584)年の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを皮切りに、紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐と大きな戦いにはすべて従軍し、武将としての経験を積んでいきました。

そして、文禄元(1592)年から始まった文禄の役では、まだ21歳だったにもかかわらず、大将に任ぜられて李氏朝鮮の都・漢城(ソウル)への入城も果たしました。最大の激戦となった碧蹄館(へきていかん)の戦いも制し、大きな功績を挙げたのです。

秀吉からの信頼を得て、将来の重鎮の座を約束されていた

その後の慶長の役でも活躍した彼は、秀吉からの覚えはますますめでたく、帰国後には秀吉を支える最重要職となる「五大老」のひとりに名を連ねるまでになりました。領地は57万石に達し、屈指の大大名となったのです。

一説には、秀吉は朝鮮半島と明を征服できたあかつきには、秀家を日本か朝鮮半島の関白に任命しようとまで思っていたと言われています。秀吉が朝鮮出兵を決定した時には、秀家が真っ先に賛成したと言われていますし、後に秀家が豊臣姓を授かっていることからも、秀吉からの信頼が日に日に大きくなっていったことがわかりますよね。27歳の秀家にとって、未来には何の不安もないように思えたことでしょう。

譜代と外様に分かれて家臣たちがお家騒動を起こす

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最も秀家に目をかけてくれた豊臣秀吉が亡くなると、秀家は途端にピンチに襲われます。家臣同士が争ってお家騒動が起き、秀家の処断のまずさも相まって、大事になってしまったのです。ついには徳川家康の裁定を仰ぐまでになり、宇喜多家の繁栄には陰りが見え始めました。

家臣同士の抗争「宇喜多騒動」のはじまり

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いの前年となる慶長4(1599)年、宇喜多家に騒動が持ち上がります。父・直家の代から仕えてきた譜代の家臣と、秀家が新たに召し抱えた外様の家臣との間に抗争が起きてしまったのです。

秀家の妻・豪姫は、前田家から家臣を連れてきていました。そのうちのひとり・中村次郎兵衛(なかむらじろべえ)を秀家が気に入って重用したため、当然、譜代の家臣たちは面白くありません。そして、次郎兵衛に専横の気があるとして、秀家に彼を遠ざけるように訴えたのです。

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