平安時代日本の歴史

新皇を称し関東独立を夢見た「平将門」について元予備校講師が解説

10世紀中ごろ、中央から派遣される国司と戦い関東一円を独立させようとした武士がいました。平将門。彼は関東各地の国衙を襲撃し、関東一円を支配下におさめます。そればかりか「新皇」と称して関東独立の動きを見せました。最終的に平将門は討伐され乱は終息しますが、朝廷に正面から戦いを挑んだ将門は怨霊となって祟りをなしたといわれます。今回は平将門について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

平将門が生きた時代の日本

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平将門が生きた10世紀前半は、平安時代の真っただ中で藤原氏が朝廷の要職を独占していました。このころ、地方では開発領主らが武装し武士が生まれ始めます。開発領主らが武装した背景には、国司による地方支配が乱れ、開発領主が自ら武装して身を守る必要がりました。やがて、武力を持った地方の武士たちは互いに勢力争いを繰り返すようになります。

藤原氏による権力独占

9世紀半ばから10世紀にかけて、藤原氏は他の有力氏族を排斥し権力を独占していきました。

842年の承和の変で、橘逸勢と伴健岑が流刑となります。また、866年の応天門の変では伴善男が流刑となりました。これにより、古代からの名族である橘氏や伴氏の力は大きく削がれます。

さらに、888年の阿衡の紛議では、宇多天皇が藤原基経に出した勅書をめぐって宇多天皇と藤原基経が激しく対立。宇多天皇が勅書の起草者を罷免することでようやく基経の怒りが収まりました。阿衡の紛議は天皇にさえ物申すことができる藤原氏の力をまざまざと見せつけます。

宇多天皇は菅原道真を登用して藤原氏に対抗しました。宇多天皇の退位後、醍醐天皇が即位し政治を行ったタイミングで菅原道真が娘婿を天皇にしようとしているという風説が流布。道真は大宰府に流されました。

将門が活躍する9世紀前半、藤原氏のトップだったのは藤原忠平です。忠平は醍醐天皇の次の天皇である朱雀天皇のもとで摂政・関白として強い力を持ちました。

平安時代中期の地方支配

8世紀から9世紀にかけて、律令にもとづく仕組みである律令国家のシステムが崩れつつありました。醍醐天皇は延喜の荘園整理令を出して違法な土地の私有を禁止し、国が土地や人民を管理する仕組みを維持しようとしましたが、うまくいきません。

10世紀に入ると、朝廷は地方の直接支配を断念。地方官である国司に地方の政治を委ねるようになりました。

国司は朝廷によって任命されます。朝廷は現在の都道府県にあたる「国」の支配を国司に委ねてしまいました。国司たちは農民や開発領主たちから税を取り立て、一定額の税を朝廷におさめます。決められた額を朝廷に収めた後、残りを国司が取得することが許されました

そのため、自分の収入を増やそうと過酷な取り立てを行う国司が相次ぎます。10世紀後半になると国司のひどい税などの非法を朝廷に訴えることが相次ぎました

武士の誕生

国司による収奪が激しくなり、地方の治安が悪化してくると、開発領主たちは自分たちの身を守るために武装し始め、武士となります。武士たちは一族のトップのもとに団結し「武士の家」を作りました。

さらに、地方に下向してそのまま任地に土着した国司の子孫らを中心に武士団を形成。地方で有力な勢力に成長していきます。この時、武士団のトップである棟梁として選ばれたのが清和源氏や桓武平氏の血を引く人々でした。

朝廷は武士たちを積極的に活用しようとします。9世紀の末、朝廷は武士たちを都で滝口の武士として登用することや、地方で押領使追捕使に任じること治安維持にあたらせるようになりました。

しかし、武士たちには高い官職や位階は与えられません。武士たちの地位は低く、貴族たちにあごで使われる立場でしかありませんでした。

平将門の乱の経緯

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関東で勢力を拡大していた桓武平氏の一族に生まれた平将門。彼は10代後半には都に出て藤原忠平に仕え、都での栄達を望みましたが果たせませんでした。将門は帰京したのち、領地をめぐる一族内での争いに明け暮れます。その一方、関東各地では国司と開発領主たちの争いが増えていきました。

都への出仕と帰郷

平将門は9世紀の終わりから10世紀にかけて、現在の茨城県南部にあたる豊田・猿島両郡を拠点とする平良将の子として生まれました。父の良将は関東を開拓し鎮守府将軍を務める有力者となります。

当時、地方武士の家に生まれた者は都での出世を願い、上京して有力貴族に仕えることが通例でした。将門は時の最高権力者、藤原忠平に仕えます。将門は忠平の推薦で滝口の武士となりました。

滝口の武士とは、天皇直属の蔵人所の管理下で天皇の住まいである内裏の警護に当たっていた武士のこと。滝口の武士を務めあげたものの中には、六衛府の武官となるものや都の警備を担当する検非違使の一員となるものもいました。いわば、滝口の武士は武士にとっての登竜門だったのです。

将門も都での出世を願い滝口の武士となりましたが、都での栄達はかないませんでした。上京してから12年後、将門は故郷の関東に帰ります

関東に根を張った平氏一門

9世紀末から10世紀のはじめにかけて、桓武天皇の血を引く皇族の一人である高望王が関東の一国で、現在の千葉県にあたる上総国に国司として赴任します。高望王は宇多天皇から「平」の姓を与えられました。そのため、高望王の子孫たちは平氏を称します。

国司の任期は原則4年です。しかし、中級クラスの貴族たちは都に戻っても高位高官に上る可能性はとても低いので、任期が終わっても都に戻らず、任地に土着するケースが多々ありました。

高望王も任期終了後に都に帰らず、関東に土着します。高望王の子供である国香、良兼、良将、良文らは地元の有力者と結びつき、関東各地を開墾していきました。

良将が若くして亡くなると、将門の叔父たちである国香や良兼、良文らが良将の土地を横領してしまいます。都から帰ってきた将門は下総国豊田を本拠地に力を養いました。

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