室町時代日本の歴史

歴史系ライターおすすめ!「竹田城」の見どころと周辺観光をバッチリ案内します

最近のお城ブームに火を付けたともいわれるのが兵庫県にある「竹田城」です。高い山頂に累々とした石垣を持ち、「東洋のマチュピチュ」とも表現されるその佇まいはまさに雄大そのもの。メディアでもたくさん紹介されていますよね。実は歴史系ライターである筆者も、現在のようにきちんと整備されるずっと前から何度となく足を運んでいて、その素晴らしさを味わってきました。そこで今回は竹田城の歴史や魅力を紹介しつつ、おすすめの周辺観光も案内してみたいと思います。ぜひ参考にしてみて下さいね。

戦国時代を生き抜いてきた竹田城の歴史

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全国には「城」と呼ばれる場所はなんと5万ヶ所もあり、その中でも竹田城は歴史ファンから絶大な人気を誇っていますね。魅力はやはり遺跡を思わせる壮大な石垣にアリといえるでしょうか。なぜそんな山の上に巨大な石垣が組まれたのか?まずは竹田城の歴史から紐解いていきたいと思います。

太田垣氏時代の竹田城

竹田城が初めて築城されたのは室町時代中期のこと。播磨国(現在の兵庫県南部)の守護大名だった赤松氏嘉吉の乱を起こし、但馬国(現在の兵庫県北部)山名氏によって討伐されると、恩賞によって播磨国守護に任じられた山名氏が勢力を拡大しました。

山名氏の重臣だった太田垣氏もまた播磨国守護代に任じられ、1443年、山陰道と但馬街道が交わる交通の要地に太田垣光景が竹田城を築いたとされています。以後7代にわたって竹田城を治めました。

1467年に応仁の乱が起こると、西軍の総大将だった山名持豊は大軍を率いて京都へ進軍し、但馬にはわずかな留守居の者しかいなくなりました。竹田城の留守を守っていたのは次男の新兵衛宗近。すると東軍に属していた隣国丹波の内藤孫四郎が大軍を率いて竹田城へ迫ってきたのです。

夜久野(現在の京都府福知山市)という土地で敵の陣形を見た新兵衛は、これを好機として内藤勢に攻めかかります。その勇猛果敢な突撃に陣形を乱した敵は算を乱して逃げ出し、内藤孫四郎ら大将は討ち死に。新兵衛ら山名勢の大勝利に終わりました。

この後も太田垣氏は主君の山名氏を支え、山名四天王とも称されますが、戦国の波は但馬にも押し寄せようとしていました。室町幕府体制が衰え守護が無力化すると、但馬もまた群雄割拠の時代を迎えることに。太田垣氏も有力者として実権を振るうようになりました。

ところが畿内で織田信長が台頭し、山陰地方へ勢力を伸ばしてくると、但馬の国人領主たちも東の織田・西の毛利との狭間にあって翻弄されるようになります。当主の太田垣輝延は結局毛利に味方しますが、信長が派遣した羽柴秀吉の大軍の前に竹田城を落とされ、没落の憂き目に遭いました。

ちなみに当時の竹田城は、石垣などほとんどなく、土でできたお城でした。巧みに堀を掘ったり土塁を積むなどして防御の工夫をしていたそう。

赤松氏時代の竹田城

羽柴秀吉の中国地方における計略のため、竹田城は秀吉軍の兵站基地になったと考えられています。街道の交わる場所は物流の要衝ですから、秀吉の弟秀長が城代となったり、重臣の桑山重晴が城主となりました。

1585年、赤松氏の支流だった赤松広秀が城主となりました。広秀は大変な苦労人で、父は敵方の手で毒殺され、自身は旧領没収の憂き目に遭い、それでも賤ヶ岳の合戦、小牧の役、四国征伐に従軍して功を挙げ、ようやく城主になれたのです。

現在見られる竹田城の姿は、広秀の時代に改修されたといわれ、戦国山城の面影を残しつつ近世城郭に生まれ変わるという変遷が見て取れますね。かつての竹田城はこんな感じだったそう。

竹田城を復元したジオラマ

また広秀は「仁政の主君」として領民から慕われていたらしく、養蚕業や漆器産業を奨励して現在にまでつながる地場産業の基礎を築きました。

しかしそんな広秀も1600年に起こった関ヶ原の戦いで西軍に味方してしまいます。西軍の負けを知って慌てて東軍へ鞍替えしますが、城攻めの際に城下町を焼討したとの罪を着せられ、切腹を命じられました。

竹田城もその際に廃城となり、歴史の闇に埋もれていったのでした。

地元自治体の重要な観光資源となった竹田城

竹田城が現在のように整備される以前から、歴史ファンや城郭愛好者たちが頻繁に登る城跡でしたが、2000年代に入ってから急速に知名度が上がるようになりました。映画のロケ地となったり、日本100名城に選定されたことが大きかったことでしょう。

必然的に人がたくさん詰めかけるようになると、安全確保のために石垣の崩落を防いだり、表層の土の流出を防止するなど史跡保護に努めねばなりません。また竹田地区では慢性的な渋滞や路上駐車が頻発したり、駐車場やトイレなどのインフラ整備が追い付かず、管理団体である朝来市は対応に追われることになりました。

そこで朝来市は「竹田城課」を設置して本格的なインフラ整備に乗り出し、城跡の維持管理に充てる入場料の徴収や、登山道の整備、シャトルバスの運行など一元的に管理できる体制を整えたのです。また城下に交流館を設けるなど内外へ向けて情報を発信できるようにしました。

観光客への適切な対応と、文化財保護を両立させた竹田城跡は、こうして世界に誇る重要な観光資源となりました。また城崎温泉や出石方面へ向かう観光客の誘致にも成功し、これまで播但連絡道路で素通りされるだけだった竹田城は、さらに多くの観光客が訪れる一大観光スポットとなったのですね。

竹田城へのアクセス方法

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竹田城跡は兵庫県の朝来市北部に位置し、地図で見る限りでは不便そうな場所にあります。そこで車や公共交通機関などによるアクセス方法について解説していきましょう。

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明石則実