- 徳川将軍家が世襲した「征夷大将軍」とは?
- 1)初代将軍:徳川家康(江戸幕府を開いたタヌキおやじ)
- 2)2代将軍:徳川秀忠(家康の三男にして真実一路の真面目男)
- 3)3代将軍:徳川家光(江戸幕府安定期のサラブレッド)
- 4)4代将軍:徳川家綱(幼くても将軍が務まるほど徳川は安泰)
- 5)5代将軍:徳川綱吉(犬を大事に!で有名なあの将軍)
- 6)6代将軍:徳川家宣(遅咲きの苦労人)
- 7)7代将軍:徳川家継(最年少で就任し最年少で死去した将軍)
- 8)8代将軍:徳川吉宗(紀州から来た暴れん坊)
- 9)9代将軍:徳川家重(病弱で引き籠り気味の将軍)
- 10)10代将軍:徳川家治(吉宗の血を引くが幕政に興味なし)
- 11)11代将軍:徳川家斉(50年に渡り幕政を取り続けた将軍)
- 12)12代将軍:徳川家慶(黒船来航で大わらわの最中に死去)
- 13)13代将軍:徳川家定(篤姫の夫にして時代に翻弄された将軍)
- 14)14代将軍:徳川家茂(幕末に揺れる若き将軍)
- 15)15代将軍:徳川慶喜(時代を生きた最後の将軍)
- 激務が続くよ将軍は~德川将軍家15人の将軍の功績を知る
この記事の目次
徳川将軍家が世襲した「征夷大将軍」とは?
徳川将軍家の「将軍」とは「征夷大将軍」のこと。本来は朝廷の官職のひとつであり、天皇から任命されて職に就きます。古くは飛鳥時代・奈良時代から。蝦夷征討で有名な平安時代の武人・坂上田村麻呂や、鎌倉幕府を開き武士の時代を切り開いた源頼朝も征夷大将軍になっています。そんな役職を265年にも渡り、15代も世襲して太平の世を築いたのが徳川将軍家。ではそんな15代将軍の顔ぶれを一挙に見ていきましょう。
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1)初代将軍:徳川家康(江戸幕府を開いたタヌキおやじ)
言わずと知れた戦国武将であり徳川幕府の祖。沼地だった関東の一角を開拓し、世界屈指の大都市・江戸を作り上げた名将です。さらに、関ヶ原の戦いで西軍に勝利し、大坂夏の陣・冬の陣で豊臣方の軍勢を鎮めて江戸幕府を開きます。
将軍としての在位は1603年~1605年の2年間。就任時すでに60歳を過ぎていたと考えられているため、年齢からすれば順当かと思われます。大阪夏の陣のときは74歳になっていました。
かなりの子だくさんで、息子たちには越前(松平家)、尾張、紀州、水戸藩をそれぞれ守らせて盤石の態勢。尾張、紀州、水戸は「徳川御三家」と呼ばれるようになり、徳川将軍家を盛り立てていくこととなります。
新しもの好きの健康オタク。天ぷらによる食中毒が死因であるという話はあまりにも有名ですが、近年の研究では、癌を患っていたのではないか、との見方もあるそうです。
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2)2代将軍:徳川秀忠(家康の三男にして真実一路の真面目男)
家康の存命中に将軍職を引き継いだのが、家康の三男・秀忠(ひでただ)でした。
なぜ三男が?という疑問が湧きますが、長男の松平信康は家康との確執など様々な理由から若くして自害。次男の秀康は幼少の頃に豊臣家に養子(人質)に出ていたなどの理由で、三男の秀忠が選ばれたと考えられています。
消去法で選ばれたみたいで気が悪いですが……秀忠は地味で目立たない人物だったようですが、真面目で堅実。関ヶ原の戦いでは決戦に間に合わないという失敗をしてしまいますが、家康が敷いたレールの上をしっかり進み、江戸幕府の礎をしっかりと築いていきます。
在任期間は1605年~1623年。将軍職を退いた後も幕府内で権勢をふるい続け、1623年に54歳で亡くなるまで精力的に活動していたようです。
3)3代将軍:徳川家光(江戸幕府安定期のサラブレッド)
3代将軍家光(いえみつ)は、2代将軍秀忠の次男(長男は幼いころに亡くなっている)。母は織田信長の姪にあたる浅井三姉妹の三女・江姫という超サラブレッドです。
乳母であった春日局は小説や大河ドラマの題材になるほど有名な女性。戦国の世が終わって安泰となった江戸で生まれ、多くの人に見守られながらすくすくと育ちました。
家光の時代に、鎖国が実施されます。各藩・各大名が徳川家にしっかりと忠誠を尽くすよう、徳川幕府中心の政治体制が整ったのも家光の時代です。参勤交代が始まったのもこのころ。江戸幕府はゆるぎない存在となります。
在任期間は1623年~1651年。在位中に病に倒れ、家綱に職務代行をさせつつ48歳でこの世を去ります。
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