9)9代将軍:徳川家重(病弱で引き籠り気味の将軍)
徳川家重(いえしげ)は吉宗の長男。
吉宗は豪快なイメージがありますが、息子の家重は虚弱体質で言葉遣いもたどたどしく、子供のころから引き籠りがちだったようです。
将軍になってからは、吉宗の後任として様々な政策を引き継ぎましたが、宝暦の凶作など悪い状況が重なって各地で一揆が多発。それでも近しい家臣たちは家重を支え、幕府を盛り立てていったと伝わっています。
在位期間は1745年~1760年。頼りにしていた側用人の死を機に将軍職を退き、翌年死去。51歳でした。
10)10代将軍:徳川家治(吉宗の血を引くが幕政に興味なし)
徳川家治(いえはる)は家重の長男。
祖父である吉宗の影響か、父とは違い、文武両道で聡明であったといわれています。
非常に優秀でありましたが幕政に興味を示さず、主だったことは父・家重が任命した田沼意次に任せっきり。構成の評価では無能と呼ばれることも多いようです。
書や絵をたしなみ、鷹狩りが趣味。将棋の腕もなかなかなものだったとか。ただ、その能力が政治に生かされることはありませんでした。
在位期間は1760年~1786年。1786年にこの世を去っています。享年50歳
11)11代将軍:徳川家斉(50年に渡り幕政を取り続けた将軍)
家治には家基という名前の嫡子がありましたが、十代でこの世を去っています。
他に適切な後継者がいなかったため、家斉(いえなり)が一橋家から養子として将軍家に入りました。一橋家は8代吉宗の四男・宗尹(むねただ)から始まる御三卿(ごさんきょう)のうちのひとつです。
家治が亡くなった後、将軍に就任した時は若干15歳でした。
就任後は田沼意次を追い出して新しい幕府体制を整え、寛政の改革を遂行。精力的に政治を執り行います。
在位期間は1787年~1837年と歴代最長。1837年に将軍職を退いてからも大御所として幕政に加わり続けました。1841年に死去、享年69歳。非常に長生きをした人でもありました。
12)12代将軍:徳川家慶(黒船来航で大わらわの最中に死去)
徳川家慶(いえよし)は家斉の次男。
将軍に就任した時は御年既に45歳。しかしまだ家斉が大御所として幅を利かせており、具体的な幕政は老中の水野忠邦が取り仕切って天保の改革などを遂行。そのあとも阿部正弘といった有能な家臣が幕政の中心にいたため、残念ながら家慶自身は、将軍としては非常に影の薄い存在でした。
在任期間は1837年~1853年。1853年といえば、あのマシュー・ペリー率いる黒船が浦賀沖に現れた年です。幕府が上を下への大騒ぎの時に突然倒れ、黒船が去った数日後に死亡。享年61歳。
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13)13代将軍:徳川家定(篤姫の夫にして時代に翻弄された将軍)
いよいよ時代は幕末に向けて動き始めます。そんな時に将軍の座に就いたのが、家慶の四男であった徳川家定(いえさだ)です。
家慶にはたくさんの子がありましたが、みんな幼くして亡くなっており、成人できたのは家定だけ。しかも家定も非常に病弱で、頼りない感じの将軍でした。
しかも、正室を2度に渡って亡くしており、何とも不運。3人目の正室として迎えたのが、あの天璋院篤姫です。
将軍就任後半年ほどして、あの黒船が再び浦賀にやってきます。病弱ながら家定は日米和親条約に調印し、米国総領事ハリスを江戸城に招き入れて面会。病状はますます悪くなったため、実際の政治は家臣たちが執り行っていました。
在位期間は1853年~1858年。35歳の若さで亡くなっています。
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14)14代将軍:徳川家茂(幕末に揺れる若き将軍)
徳川家康はあんなに健康オタクでアグレッシブだったのに、時代が進むにつれ、徳川将軍候補たちはみんな病弱で短命です。それだけ激務だったということなのでしょうか。
家定に跡継ぎがいなかったため、紀州徳川家から養子に入った家茂(いえもち)が14代将軍となります。この時、家茂は若干13歳。将軍候補として他に後の15代将軍慶喜の名も挙がりましたが、徳川本家との血筋の濃さなどから、家茂が将軍職に就きました。
公武合体構想から、朝廷と幕府のつながりを強くするべく和宮(かずのみや)を正室に迎えます。
家茂自身が何かしでかしたわけではありませんが、在任期間には禁門の変など日本を揺るがす事件が相次ぎました。そんな中、若干21歳の若さで死去してしまいます。在任期間は1858年~1866年。時代はいよいよ、幕末から明治へと動き始めていました。