中国の宋との貿易は水軍がおこなっていた
平安時代後期には、瀬戸内水軍は、日本列島の中国の宋との交易を独占していたのです。ただし、中国大陸各地との交易はすべてがうまくいくとは限りませんでした。普段は、商船として交易をおこないますが、もともとは武士であり、戦士たちです。商売がうまくいかなくなると、その戦闘力を発揮して中国の沿岸地域に海賊として略奪行為をおこなうようになっていきます。
そのために、中国では倭寇と言われて、恐れられる存在となっていきました。これが、我々が言っている倭寇の起源になりました。
中国のモンゴル帝国元の成立と倭寇
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しかし、鎌倉時代になると、中国の宋は亡んで、モンゴル帝国である元(げん)が成立し、日本列島にも触手を伸ばすようになります。元寇と呼ばれる文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)がおこなわれたのです。モンゴル帝国の元は朝鮮半島の高麗を先陣にして、北九州に攻めてきた事件でした。台風などによって元寇の勢力は全滅していますが、そのころから瀬戸内水軍は、なかなか中国との交易ができなくなり、海賊行為である倭寇が増えていったのです。
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倭寇を封じた足利義満は明の勘合貿易を利用
金閣寺で知られる室町幕府の3代将軍足利義満は、室町幕府の財政確立のために、中国で元を倒して新たに成立した明王朝との交易をおこなうことを考えました。しかし、当時、中国との交易は瀬戸内の水軍に任せられていたのです。彼らが交易を独占した上に、しばしば倭寇として海賊行為をおこなっていたため、中国の明王朝は日本を信用していませんでした。
そこで、足利義満は、明王朝が海外からの朝貢貿易に対して船の信用を保証する勘合符を発行してもらい、その勘合符を持っていない船の交易を禁じるようにしました。これによって、足利義満は明王朝の信頼を得たのです。そのため、これまで中国との交易を独占していた瀬戸内水軍は、義満から勘合符をもらって交易するしか交易はできなくなりました。そのため、倭寇をすれば、勘合符をもらえなくなるため、自然と倭寇はおこなわれなくなったのです。これによって、明王朝はますます足利義満を信用するようになりました。
足利義満は、この明との交易によって巨大な利益を得て、南北朝を統一し、大きな権力で室町幕府の統治を確立したのです。
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倭寇はなくなったが水軍は残っていた
ただし、倭寇はなくなったとは言え、瀬戸内水軍は義満の勘合符貿易の実際の担い手として残っていきました。しかも、室町幕府の力が弱まった応仁の乱以降、室町幕府の末期までは、瀬戸内水軍は健在で、一部では再び倭寇をおこなう水軍も出るようになったのです。
瀬戸内水軍は、中国地方を制圧した毛利氏の配下として瀬戸内海を支配し、平清盛が建立した宮島の厳島神社は毛利氏の守護神にもなっていました。その背景には、この地域を支配した毛利一族の吉川氏がそれらの水軍を支配していたことがあります。
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ヨーロッパ勢の進出による倭寇の消滅
しかし、16世紀中盤以降になると、中国における明の力は衰え、ヨーロッパのスペイン、ポルトガルなどの交易船が東南アジアから中国大陸との交易を支配するようになります。彼らとつながった堺の商人が力を持つようになり、瀬戸内水軍の村上水軍、来島水軍、九鬼水軍などは次第に力を失っていきました。かつて倭寇の中心だった人々は力を失ってしまい、倭寇もおこなわれなくなったのです。