ロシア

雷帝と恐れられたモスクワ大公国のツァーリ「イヴァン4世」を元予備校講師がわかりやすく解説

日本の北方に位置し、ユーラシア大陸の大きな面積を占めるロシア連邦。その源流をたどると13世紀に成立したモスクワ大公国にたどり着きます。16世紀中ごろにモスクワ大公となりツァーリを称したイヴァン4世は国の力を強める一方、親衛隊を用いた恐怖政治により雷帝と恐れられました。今回はロシアの源流となるモスクワ大公国とイヴァン4世について、わかりやすく解説します。

イヴァン4世以前のロシア

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9世紀、リューリク率いるノルマン人たちはスラヴ人たちが住むロシアに進出しノヴゴロド国やキエフ公国を建国しました。ビザンツ帝国からギリシア正教を受け入れたキエフ公国はキリスト教の国になります。13世紀、東方から進出したモンゴル人たちによって支配される「タタールのくびき」を経験。その後、タタールのくびきを脱したモスクワ大公国を中心にロシア国家の原型が作られます。

ノヴゴロド国とキエフ公国の建国

9世紀中ごろ、ノルマン人の一派であるルーシ族を率いたリューリクは、ノヴゴロドに国を作りました。ロシア北西部に位置するノヴゴロドはロシア最古の都市とされます。

9世紀後半、リューリクの一族であるオレーグはノヴゴロドから南に進出。ドニエプル川中流にあるキエフに国を作ります。912年にイーゴリを大公とするキエフ公国が成立しました。

のちに、キエフ公国はノヴゴロドを併合しロシアを代表する国に成長します。キエフ公国はドニエプル川中流に位置するという地理的な有利さを活かし、黒海を通じて南のビザンツ帝国と盛んに貿易を行いました。

とはいえ、ノヴゴロド国もキエフ公国も一地方を支配するにすぎず、全ロシアを統一するような大きな国ではありませんでした。どちらの国も支配者となったノルマン人は原住民であるスラヴ人に同化します。

ギリシア正教化するキエフ公国

10世紀末から11世紀にかけてキエフを統治したウラデミィル1世は、ビザンツ帝国との関係を深めます。

10世紀末、トルコ系のブルガリア王国に圧迫されていたビザンツ帝国は、キエフ公国にブルガリア王国を背後から攻撃することを要請しました。これに対し、ウラディミル1世はビザンツ帝国の要請を受け入れます。

ビザンツ皇帝はウラディミル1世に妹のアンナを嫁がせ、姻戚関係を結びました。この結婚を機に、ウラデミィル1世はビザンツ帝国で信仰されていたキリスト教の一派であるギリシア正教に改宗。ロシアはギリシア正教圏に入りました。

以後、ロシアはビザンツ帝国と密接なかかわりを持つことになります。のちに、コンスタンティノープルが陥落しビザンツ帝国が滅亡すると、ロシア皇帝はビザンツ帝国の後継者と称するようになりました。

モンゴルの支配であるタタールのくびき

13世紀初頭、モンゴル高原を征服したチンギス=ハンは周辺諸国を次々と征服します。征服活動は2代目大ハンとなったオゴタイにも引き継がれました。オゴタイは兄の子でモンゴル西方の草原地帯をおさめていたバトゥに西方遠征を命じます。

バトゥの軍は電光石火でロシア各地の都市を攻撃。リャザン、モスクワ、ウラディミルなどを次々と占領しました。1240年、バトゥ軍はキエフ公国の都であるキエフに迫ります。バトゥ率いるモンゴル軍はキエフ公国軍を圧倒し、キエフを陥落させました。これによりキエフ公国は滅亡します。

1243年、バトゥはボルガ川下流のサライを都とするキプチャク=ハン国を建国。モンゴル人によるロシア支配がはじまります。この支配を「タタールのくびき」といいました。ロシアの諸侯たちはキプチャク=ハン国に貢物を差し出すことで現地の支配権を認められます。

モスクワ大公国の自立

キプチャク=ハン国は14世紀前半に最盛期を迎えますが、その後、衰退期に入りました。14世紀の末になると西からリトアニアが、東からはティムール帝国がキプチャク=ハン国を圧迫し衰退に拍車がかかります。

1380年モスクワ大公ドミトリーはクリコヴォの戦いでキプチャク=ハン国に勝利し、独立への第一歩を記しました。

1462年、モスクワ大公国の大公に即位したイヴァン3世は周辺のロシア人国家を吸収しつつ、勢力を拡大。1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、イヴァン3世は最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるソフィアと結婚し、ビザンツ帝国の紋章である双頭の鷲を受け継ぎます。

1480年、イヴァン3世はキプチャク=ハン国に対する貢納を停止。キプチャク=ハン国から自立することで「タタールのくびき」を脱することに成功しました。

イヴァン3世の子、ヴァシーリ3世のとき、モスクワ大公国はロシア全土をほぼ統一します。

イヴァン4世の治世

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ヴァシーリ3世の死後、イヴァン4世はわずか3歳でモスクワ大公国の大公に即位します。イヴァン4世は祖父、父と続いた領土拡張政策を受け継ぎました。彼は自分の権力基盤として親衛隊を組織。反対派を粛清する専制政治をおこない、自分に敵対するものはノヴゴロドの虐殺でわかるように容赦なく弾圧します。その姿勢から「雷帝」とよばれ恐れられました。

イヴァン4世の即位とツァーリの称号

1533年12月、父ヴァシーリ3世が病死したため、わずか3歳でイヴァン4世は即位します。大貴族たちは幼いイヴァン4世を押しのけて権力闘争を繰り広げました。

1547年、16歳になっていたイヴァン4世はツァーリを称しますツァーリ(皇帝)の称号は祖父のイヴァン3世が初めて使いましたが、まだ定着していませんでした。イヴァン4世はツァーリを全ロシアの皇帝の称号と位置づけ、自らツァーリを名乗ります。

このころから、イヴァン4世は自ら政治を行うようになりました。イヴァン4世は大貴族たちの力を抑制し中央集権国家を作り上げます。

また、農民たちの移動を厳しく取り締まり農奴制を徹底させました。その結果、皇帝であるツァーリの権力を絶対とするロシア独特の仕組み、ツァーリズムの基礎が築かれます。ツァーリズムは次の王朝であるロマノフ朝にも引き継がれ、ロシアの基本的な社会体制となりました。

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