室町時代日本の歴史鎌倉時代

【倭寇とは?】古代と中世の鎌倉時代から室町時代まで続いた2つの倭寇について解説

北朝鮮にある広開土王の碑文にも倭寇が見える

また、明治時代に発見された高句麗の広開土王の石碑にも、倭寇による侵略があり、戦ったことが記載されています。広開土王碑は教科書などにも記載されており、有名ですね。これは、4世紀頃の出来事であり、その頃は、朝鮮半島南部に伽耶や北九州には大和朝廷とは別の倭族のクニが成立していたと考えられています。4世紀当時の日本列島には、すでに大和朝廷が成立し、勢力拡大がおこなわれていました。大和朝廷そのものの大王家にも、倭族の血が流れていたと考えられますが、まだ朝鮮半島まで勢力を拡大する余裕はなかったのです。九州には、大和朝廷とは違う倭族のクニがあり、大和朝廷の勢力圏には入っていなかったと言われています。

朝鮮半島南部の倭族は、半島南部に押し込められ、そのために百済、新羅、高句麗に対して倭寇として部分的な攻撃を繰り返していたと考えられるのです。

したがって、古代朝鮮における倭寇は、日本列島の大和朝廷の大王家や北九州の倭族とは関係なく、朝鮮半島南部の倭族が独自におこなっていたと考えられます。すなわち、朝鮮半島内の民族同士の戦争だったと言えるのです。

日本列島内にも海人族がいたが

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古代の日本列島にも、安曇族、住吉族などと言われる古代海人がいたようです。住吉神社などはその名残ですが、もともと日本列島の古代海人族は、縄文人や弥生人の地域間の交易をおこなっていました。列島内の交易によって勢力を拡大していましたが、当時の彼らには朝鮮半島まで進出する力はなかったようです。日本列島においてその勢力を拡大するのに精一杯でした。

そのため、彼らには朝鮮半島に遠征して、倭寇をおこなう余裕はなかったのです。

平安時代後期には武士層の一部が海人族として活躍し、水軍となる

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しかし、安曇族、住吉族の人たちは日本列島で海人族として残っていき、平安時代後期には、武士として水軍を形成するようになっていきました。そして、その後には、倭寇で知られる存在になっていったのです。その様子を見てみましょう。

瀬戸内海には多くの水軍が存在した

西日本の瀬戸内海では、多くの水軍が存在するようになります。従来の交易をする海人族と武士層が結びついて、水軍となっていったのです。西日本で武家の棟梁となっていた平家を支えていたのもこの瀬戸内水軍でした。

平清盛も水軍の親玉だった

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例えば、広島の宮島にある厳島神社は、源氏の八幡神社に対抗して平家の守り神として栄えています。その背景には、この地に厳島水軍がおり、平家、とくに平清盛の宋との交易を支えて、巨額の宋銭を蓄えていたと言われているのです。この資金力が平清盛の出世のバックボーンになっていたと言われています。

すなわち、平清盛は瀬戸内水軍の親玉だったと言えるのです。

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