鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争
大政奉還を行ったことで安泰と思っていた徳川慶喜ですが、王政復古の大号令を成し遂げた倒幕派の連中から「領地や官位も返しなさい」と言われ、激怒します。
倒幕派からすれば、幕府でなくなったとはいえ、徳川家は日本で最も多くの領地を持つ大地主であり、その力は強大です。土地や財産を持ったままでは、いつ何をしでかすかわかりません。
しかも、実際に攻め込まれたわけでもないので、まったくの無傷。うまいタイミングで大政奉還を行ったものです。徳川慶喜、侮れません。
もともとキレ者として通っていた徳川慶喜。当然のことながら、新しく始まる政治体制(新政府)でも、あれこれ意見を言ってきて面倒なことになる可能性が高いです。
しかしそんなことを言われて黙って「領地もお返しします」とすんなり差し出すわけがありません。会津藩をはじめとする旧幕府に近い勢力は決起。慶応4年(明治元年)の1月、京都南部の鳥羽や武田、伏見などの各地域で激しい戦闘が始まります。
この戦は「徳川から力を奪いたい者」と「徳川」の軋轢が生んだもの。天皇は関係ありませんから、ということで、朝廷が出兵の令を下すことはありませんでした。そのため、旧幕府軍15000に対し、西郷隆盛たち率いる新政府軍の兵力は5000ほど。一見、旧幕府軍に勝機があるように見えます。
兵力で勝る旧幕府軍でしたが統率はとれておらず、次第に形勢は悪化。慶喜は途中で離脱してしまい、旧幕府軍に加わっていた会津藩や新撰組は次第に北へ。戊辰戦争へと発展していくのです。
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江戸を戦火から守った「江戸城無血開城」
鳥羽・伏見の戦いで戦線離脱した徳川慶喜は江戸に逃亡。これにより、戦の対象は京都から江戸に向けられます。
慶喜自身は、もう政治の世界から退くつもりでいたようです。
徳川慶喜が15代将軍に就いたとき、慶喜自身は都を守るために京都にいました。慶喜は将軍として江戸城に詰めたことがなく、城に固執することもなかったようです。
実際、慶喜は上野の寛永寺に身を寄せていたと伝わっています。
しかし「やめます」といってやめることができるほど、単純な時代ではなくなっていました。それは敵も味方も同様。旧幕府軍には再度慶喜を担ぎ上げて一旗揚げようという者も多く、慶喜憎しと怒りを露にする敵もまだまだたくさんいる状態でした。
江戸城は幕府のシンボル。江戸の町もまたしかりです。幕府がなくなり慶喜が身を潜めてしまった今、倒幕派・新政府軍が江戸に攻め込んできてもおかしくありません。
これから、アメリカをはじめとする諸外国と渡り合わなければならないときに、江戸の町が戦火に見舞われるなど、あってはならないことです。現実に、西郷隆盛は江戸へ進軍するつもりでいました。
一触即発の危うい空気の中、日本の未来を憂いで動きを見せた人たちがいたのです。幕臣の一人であった高橋泥舟、山岡鉄舟。二人は1868年(慶応4年)の春、西郷隆盛と面識のあった勝海舟を介して江戸城明け渡しの交渉を開始。勝海舟と西郷隆盛の会談を成功させ、一筋の争いを起こすことなく江戸城を明け渡します。
これにより、江戸は戦火を逃れ、無事に新しい時代を迎えることができたのです。
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