ヨーロッパの歴史

皇帝が教皇に謝罪?「カノッサの屈辱」をわかりやすく解説

「カノッサの屈辱」とは、11世紀、中世ヨーロッパで繰り広げられた高位聖職者の任命権に関わる政治的・宗教的争いの中で起きたとある事件のこと。長い長い叙任権論争の歴史の一幕ではありますが、日本語に訳すと何とも印象的な響きを持つ単語となり、1990年代には人気のテレビ番組のタイトルにもなりました(番組の内容とは特に関係なかったようですが)。そんな「カノッサの屈辱」とはどのような事件だったのでしょうか。当時の時代背景なども含めて紐解いていきましょう。

どんな事件だった?カノッサの屈辱の全貌とは

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「カノッサの屈辱」という言葉は日本では大変有名ですが、欧米では「カノッサ事件」「カノッサへの道」といった表現が使われることが多いようです。さらに、この事件はあくまで叙任権闘争の一部であり、この出来事だけを大きく取り上げることはほとんどないのだとか。教会や聖職叙任権など、日本人には馴染みの薄い事柄が大きく関わってくるため、わかりにくい部分も多いのかもしれません。わかりにくいけれど印象的なネーミングの「カノッサの屈辱」。どんな事件だったのか、順に見ていきたいと思います。

時代背景(1)皇帝と教皇の聖職者任命権をめぐる争い

中世初期(5世紀から10世紀ごろ)にかけて、ヨーロッパではローマ皇帝とローマ教皇の間で、聖職者(司教や修道院長などの各役職)の任命をめぐって激しい争いが繰り広げられていました。

ヨーロッパの人々にとって、聖職者とは単なる役職にあらず、キリスト教の頂点であり、地上と神々の世界をつなぐ存在であり、神の代理人でもある特別な存在。この地位を、俗世の頂点であるローマ皇帝と、カトリックの頂点であるローマ教皇が争いあっていたわけです。

皇帝と教皇。政治と宗教のトップとして、もともとは別々の存在として住み分けができていたはずですが、ローマ帝国が力を持ち、教会の力も強くなっていく中で、お互いに牽制しあうようになったものと考えられています。

ローマ皇帝はそもそも、ローマ教皇から皇帝の称号を与えられていました。でも教会も信者たちも含めてローマすべてを掌握し統治しているのがローマ皇帝です。聖職者たちに大きな顔をされては面白くありません。ローマ皇帝は教会を支配下に治めようとし、教会は教会で聖職者たちは教皇に従う存在であると主張。双方譲らず、ローマ皇帝とローマ教皇の対立関係は日に日に深くなっていきます。

そんな複雑な状況が数十年間続き、にっちもさっちもいかない状況に陥ってしまっていました。

時代背景(2)皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世

10世紀頃、宗教や信仰の世界から、政治や権力の影響を切り離そうとする運動や改革が幾度となく行われるようになります。

教会を建てるには土地や建設費が要るわけで、いくら信仰のためとはいっても、その土地土地の地主や貴族たちの協力は不可欠です。実際、地域の貴族たちによって寄贈された所領に建てられた教会も多く、貴族や皇帝に近しい者たちが聖職者の任命権を主張することは当然の流れだったのかもしれません。

そこで当然皇帝は、こうした教会側の改革を拒否します。

時の皇帝は神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世。若くして王となり、イタリア、ドイツ、フランス北部など広大な領土を治めながら激動の時代を生きた悲運の皇帝です。それ以前の皇帝たちの多くがそうしていたように、ハインリヒ4世も教会を通じてての統治を行っていました。

一方、数々の教会改革を進めていたのが、1073年にローマ教皇の座に就いたグレゴリウス7世です。ローマ皇帝が聖職者を任命することが聖職売買(シモニア)に当たるとし、教会の腐敗につながるとして数々の改革を慣行。彼のもとで、教会は勢いを取り戻しつつありました。

時代背景(3)破門だ!皇帝と教皇の熾烈な争い

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若き皇帝・ハインリヒ4世がこのような状況を快く思うわけがありません。今まで同様、自分の息のかかった者たちを司祭や司教など重要な職に次々と任命し、教会での影響力を保とうとします。これに対しグレゴリウス7世は、司祭の任命権は教会にあると強く主張。でもハインリヒ4世はこれを無視。これが世にいう叙任権闘争です。

グレゴリウス7世はハインリヒ4世を辞めさせるべきだとほのめかし、ハインリヒ4世もグレゴリウス7世の廃位を主張。激しいにらみ合いの結果は、教皇のほうが一枚上手だったということか、ハインリヒ4世は破門が決定します。この背景には、常々ハインリヒ4世に不満を抱いていたドイツの貴族たちの影響が大きかったようです。

このまま破門が実行されてしまえば、ハインリヒ4世は完全に権力を失います。破門解除の条件は、まずグレゴリウス7世に謝罪すること。教皇の許しがなければハインリヒ4世は破門され、新しいローマ王を決めるか、あるいは皇帝なしの状態で政治が続けられる可能性もありました。

後がなくなったハインリヒ4世。今後も皇帝として権勢をふるうためには、教皇に頭を下げなければなりません。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世のもとに使いを出しますが、グレゴリウス7世がその使者に会うことはありませんでした。

極寒の中素足で謝罪:これが世にいう「カノッサの屈辱」

もう、自ら教皇のもとに出向いて謝罪するよりほかに道はありません。ハインリヒ4世は会議のために北イタリアへ向かう途中の教皇の滞在先を探し、トスカーナの女伯マティルデ・ディ・カノッサの領地内にあるカノッサ城へと向かいます。1077年1月のことでした。

会議とは奇しくも、新しいドイツ王を決めるための会議。ドイツのアウグスブルクという都市で行われる予定で、カノッサはその途中にありました。マティルデは熱心な教皇派の信者であったため、宿泊所として自らの居城を強硬に提供したのでしょう。

1月の寒い中、このカノッサ城に突然、ハインリヒ4世が現れます。

ハインリヒ4世はもちろん、今後のことを考えて、教皇に謝罪をしたいとやってきたのですが、教皇は警戒。「もしかしたら自分を捕縛しに来たのかも、恨んで殺しに来たのかも」と訝しむのも無理はありません。ハインリヒ4世の訪問を知っても、城から外へ出ようとはしませんでした。

これであきらめるわけにはいきません。ハインリヒ4世はなんと、修道士の服に着替えて素足にサンダル履きで雪の中に立ち、教皇に対して許しを請います。

破門状態にあるとはいえ、今まで皇帝として帝国のトップに君臨していた人物です。それが薄っぺらい服1枚を羽織っただけで寒空の下、飲まず食わずで3日間も城の前に立ち続けたと伝わっています。

これが世にいう「カノッサの屈辱」です。

こんなことをされては会わないわけにはいきません。ハインリヒ4世はようやくグレゴリウス7世の許しを得ることができ、破門は解除されます。

争いは続くよどこまでも:カノッサの屈辱の後日談

雪の中、許しを請い続けたハインリヒ4世の心のうちはわかりません。雪の中許しを請い続けたのは本心だったのか、それともパフォーマンスだったのでしょうか。

ただ、ハインリヒ4世はこの後ドイツに向かい、反対派の勢力を排除して王権を取り戻すことに成功。直ちに権力者として返り咲きます。また、叙任権をめぐるグレゴリウス7世との争いも、これで終わりとはいきませんでした。

両者は再び激しく争いあいますが、カノッサの一件以後は、ハインリヒ4世側が優勢に。軍隊を率いてローマを包囲しグレゴリウス7世を追い出すことに成功。勢いを増していきます。

しかし歴史は繰り返すとはよく言ったもので、そんな行為を繰り返していたハインリヒ4世もまた、近しい貴族や家臣、息子たちの反発を食らい、結局、皇帝の地位を追われることになるのです。

悲惨な結果になることは明白。歴史から学ぶことは多いはずなのに、カノッサの一件以降も、まだしばらくの間、皇帝と教皇の争いは続いていきました。

「カノッサの屈辱」という言葉は、強制されて相手に屈し、不本意ながら謝罪することの例えとして使われることがあります。

よく考えてみると、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を許す必要などなく、あのまま破門してしまっても特に問題はなかったのです。しかし雪の中で素足で許しを請う姿に憐れみを感じたのか、ハインリヒ4世を許してしまいます。その結果、自分自身が追われる立場に。温情をかけるべきではなかったのか?いろいろと考えさせられる一件ではあります。

ローマ皇帝が破門され、ローマ教皇に対して雪の中3日間も飲まず食わずで謝罪を続けたという「カノッサの屈辱」。歴史の中の小さな出来事ではありますが、後世の人々の記憶に深く刻まれる事件として語り継がれることとなったのです。

余談:事件の舞台となった「カノッサ城」はどこにある?

ここまで調べたら「カノッサ城」ってどこにあるのだろう?今はどうなっているの?ハインリヒ4世が立ち続けた場所ってどこ?等々、実際に行ってみたくなるのが世の常というもの。日本なら「有名なあの事件が起きた場所」として観光名所にでもなりそうですが、ヨーロッパの人々にとって「カノッサの屈辱」はそういう類の出来事ではなかったようです。

カノッサの一件の後、カノッサ城の領主である女伯マティルデは教皇派の一人としてグレゴリウス7世を支援しますが、教皇失脚後は皇帝派との争いに敗れて没落していきます。事件の舞台となったカノッサ城も転々と人手に渡り、戦争や地震などを経て崩壊。現在では荒廃した瓦礫の跡が残るだけとなっており、観光客が近づくことも少ないのだそうです。

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