教養歴史

戦国時代を熱く生きたヒーロー!世渡り上手の伊達政宗の生涯は如何に

金色に輝く大きな三日月が付いた黒塗りの兜がトレードマークの「伊達政宗」。政宗は、朝鮮出兵の時に伊達の家来を黒漆の具足で統一し、自身を飾り立て人々の目を引くようセンス良くアピールする名プロデュースぶりをみせ「伊達者」の名を残しています。名武将なことはもちろん、世渡り上手なパフォーマーとしての才能ももっていました。秀吉も家康も一目置いた、戦国のヒーロー「伊達政宗」の人生をひも解いてみたいと思います。

1.病を乗り越え力強く成長する政宗

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伊達政宗(だてまさむね)は、安土桃山時代から江戸時代初期の戦国大名です。出羽国と陸奥国を治めた伊達氏の第17代当主で、仙台藩の初代藩主でした。幼いころの病気で右目を失い後に「独眼竜」と呼ばれています。ここでは、幼少時代の政宗をひも解いてみましょう。

1-1「独眼竜・伊達政宗」の誕生

伊達政宗は永禄10(1567)年8月3日に、出羽国(現在の山形県と秋田県の一部)にあった名門伊達家の居城米沢城で、伊達家16代当主伊達輝宗(だててるむね)と最上義守の娘義姫(お東の方)との間に、長男として誕生しました。要するに政宗は、父が奥州探題家で、母が羽州探題家の出というサラブレッドです。同じころには、甲斐で真田信繁(幸村)が生まれています。

幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」といい、赤ちゃんのころは健やかに育ちました。不幸が襲ったのは梵天丸が、5歳の時です。当時は治療法もなく半分以上が命を落とした恐ろしい病「疱瘡(天然痘)」にかかってしまいます。数日間生死の境を彷徨いましたが、一命をとりとめることができました。

右眼には、酷い疱瘡の跡と失明という後遺症が残りました。かさぶたとなった皮膚は垂れ下がり、見る者は皆目を背けるほどだったとか。これまで可愛がってくれていた母がその醜さから、梵天丸を避けるようになり、弟の小次郎ばかりを溺愛するようになったようです。

1-2シャイな後継ぎを心配した、梵天丸の家来たち

成長するにつけ梵天丸は、人目を避けるようになりました。そんな、嫡子の姿に心を痛めた父輝宗は、豪快な性格で有名な当代きっての名僧「虎哉宗乙(こさいそういつ)」を教育係として招いています。虎哉の教育は、梵天丸の閉ざした心を開かせることに重きを置きました。政宗の豪快な性格は、師匠である「虎哉」譲りだとか。

もう一人、梵天丸の心を開いてくれた人物がいます。10歳年上のお付き「片倉景綱(かたくらかげつな)」です。ある日、目の前に「若様、剣術のけいこをいたしましょう。」と現れたのです。自分の顔を怖がらずに真っすぐ見る姿に、「こいつなら心を開ける。」と思ったようです。

「母の愛を独り占めする弟を見ると、体がすくんでしまう」と、梵天丸は景綱に悩みを打ち明けました。その夜、景綱は死ぬのを覚悟した時に着る「白装束」を纏いやってきました。

若がそのような人物では、伊達家のあるじとはなれないでしょう。若のお相手を命じられた者としては、生きていけません。ここで切腹します。」というのです。「お前が死んだら、俺も死ぬ。」といった梵天丸に、その覚悟があるなら、私を信じて醜いお顔の部分を切り取らせてほしいといいました。梵天丸も引くに引けず、切らしたというエピソードが残っているのです。でも、後に政宗の頭蓋骨に眼球摘出の跡がないことが判明しており、事実でないことが確認されています。

1-3「政宗」という名前は父の期待から付けられた

天正5(1577)年11月15日に、梵天丸は11歳で元服しました。名前を「伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね)」と改めています。当時の元服の平均は15歳でしたが、顔のコンプレックスを払拭し、家臣との信頼関係を築けた我が子に、早く一人前になってほしいとの、父輝宗の愛情だったようです。また、母や弟に、嫡男は政宗であると示しておきたかったというエピソードも残っています。

「伊達政宗」という名前は、藤次郎だけではありません。9代当主の「大膳大夫(だいぜんだいぶ)政宗」という、かつて「伊達政宗の乱」という2つの戦いで伊達家の名を近隣諸国に轟かせた功績を持つ人物がいました。その名を取って、梵天丸に「政宗」を名乗らせたのです。9代政宗は、「伊達家中興の祖」と称えられています。

2.あるじとしての才能をみせる政宗

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父輝宗は、誰よりも政宗の当主としての才能を見出していました。若いころから政宗は、ぶれない価値観と人との交渉力に長けていたようです。また、幼いころに抱えたコンプレックスが幸いし、家来の力を最大限に引き出す能力が形成されていることにも気付いていました。輝宗は早々に引退し、政宗に当主の座を譲っています。

2-1政宗の結婚は伊達家にとっても好都合

政宗が13歳になった時、三春城主田村家の娘「愛姫(めごひめ)」を正室として迎えました。田村家は決して大きな家ではありませんでしたが、父輝宗は大きな家だと妻の実家があれこれと口を出してくるから煩わしくなくてちょうどいいと考えたからです。

大きな家から妻を迎えるなら、最上や蘆名、二階堂、相馬、佐竹、畠山など、有力大名が周辺にはたくさんいました。その中でも、戦上手の相馬氏は、目の上のたん瘤だったのです。相馬氏とは政宗の曾祖父植宗のころから約10年も、領地争いが続いていました。回数にして30回以上も戦っています。正室となった愛姫の母は、田村家に嫁ぐ前は相馬家の娘だったこともあり伊達家にとっては何よりの良縁だったようです。

父の期待を感じ取った政宗は、「いよいよ、強くならなければ!」と心に決めたようです。相馬との戦いで、14歳の時に初陣を飾ることになりました。場所は、伊達と相馬との領地の境にある金山城でした。ここは、相馬軍の守りの要といっても過言ではありません。1581年の初陣の時には決着は付かなかったようですが、1584年に金山城は伊達家臣中島氏の城となりました。

2-2一城の城主となる政宗

政宗の戦における天性の感のよさを見抜いた父輝宗は、天正12(1584)年10月に41歳という若さで早々に引退しました。驚いた政宗は父に「18歳で家督を継ぐのは、早すぎるのでは?」といいましたが、父は「お前のように戦上手な武将は早くあるじとなり、力量を磨く方が伊達家の将来のためだ」といったようです。家督を譲り受け伊達家17代当主となった政宗は、奥州制覇を目標に掲げ進撃を始めます

活躍ぶりは目覚ましいもので、翌年5月に蘆名領檜原攻めを行い、8月の大内領小手森城攻めの際には、皆への見せしめのために撫で切りを行い皆殺しにしたとか。1年の間に現在の福島県北部まで領土を広げています。

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