激化する尊王攘夷運動と八月十八日の政変
江戸幕府が徐々に力を失っていく中、諸藩の動きも活発になっていました。
幕府が開国を行ったことで「尊王攘夷(天皇を敬い、異国人を追い出すという思想)」という気運が高まります。その筆頭が、吉田松陰や高杉晋作などの名士を数多く輩出した長州藩(現在の山口県)です。
長州藩は天皇を中心とした国づくりを進めようとしますが、やり方がやや強引。武力行使もいとわないそのやり方に、当の孝明天皇は警戒心を抱いていたと思われます。
一方、会津藩や薩摩藩を中心に進められていたのが、朝廷と幕府が協力し合って強い国を作ろうといもの(公武合体)。天皇はこの2藩を特に頼りにしていました。
文久3年8月18日(現代の暦では1863年9月30日)、会津と薩摩は協力して、長州藩および彼らを支持する公家たちを京都から追放します。夜明け前、御所(天皇の住居)の門を閉めてしまうのです。
長州は都の警備から外され、京都から退去を余儀なくされます。
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池田屋事件と禁門の変(蛤御門の変)
しかしこれで黙っている長州ではありません。ひそかに京都に潜り込んで再起の機会を狙っていました。
京都の町中では、会津藩の声掛けで招集された浪士の集団「新撰組」が京都の町中の警備に奔走。八月十八日の政変の翌年、尊王攘夷派の志士たちが新撰組に襲撃されるという事件が勃発(池田屋事件)。尊王攘夷運動はますます激化していくのです。
池田屋襲撃で同士を数多く失った長州藩はますます勢いを増し、京都に集結。御所を包囲します。
目指すは天皇の奪還と、会津藩・松平容保らの殺害。天皇を敬うことが目的のはずなのに、御所に砲口を向けることとなってしまうとは、なんとも皮肉なものです。
そして元治元年7月19日(現在の暦で1864年8月20日)、御所の西側にある蛤御門で長州軍と会津軍が衝突。長州軍は門を突破して一時は優勢となりますが、会津に薩摩藩が加勢したため形勢逆転。他の長州軍も成果を上げることができず、大敗。長州藩は朝廷に歯向かった朝敵となってしまうのです。
この戦いには薩摩藩の西郷隆盛も加わっていました。
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