イギリスヨーロッパの歴史

イギリスを第二次世界大戦で勝利に導いた「チャーチル」不屈の政治家をわかりやすく解説

反共産主義者としてのチャーチル

チャーチルが商務大臣を務めていた1907年頃、イギリスは不景気でした。1908年の失業率は前年の倍に膨れ上がります。そのため、労働者の権利を求める労働党の力が急速に拡大していました。

1910年に入ると、労働者たちの行動はエスカレート。1911年に入ると鉄道や港湾の労働者たちが大規模なストライキに突入します。内務大臣だったチャーチルはストライキを弾圧する姿勢を崩しませんでした。

1917年にロシア革命がおき、ロシアに世界初の社会主義国家であるソ連ができると、チャーチルは反共産主義の立場をますます鮮明にします。この時、戦争大臣だったチャーチルはロシア革命に反対する勢力への資金援助を実施しました。

チャーチルの強固な反共姿勢は労働党などの忌避を買い、首相のロイド=ジョージの判断で戦争大臣から植民地大臣に転任させられます。チャーチルの反共姿勢はその後も続きました。

反ナチスを唱え、チェンバレン内閣の宥和政策に反対

1929年の世界恐慌により、ドイツではナチスの勢力が急速に拡大していきました。ナチスを率いるヒトラーはヴェルサイユ体制の打破を目指します。

世界恐慌に苦しむドイツ国民はヒトラーを熱狂的に支持。1934年のヒンデンブルク大統領の死とともにヒトラーは独裁的な地位である総統として全権を掌握しました。ヒトラーは徴兵制を復活させ軍備を拡大。国際連盟をも離脱し、オーストリアを併合しました。

イギリスのチェンバレン内閣は、ナチス=ドイツの勢力拡大をある程度認めたうえで、平和を維持しようとする宥和政策をおこないます。チャーチルはチェンバレン内閣による宥和政策を批判し、ナチスの脅威を説きました。

チェンバレン内閣はミュンヘン会談でドイツの領土要求を受け入れ、戦争回避に努めましたがヒトラーによる領土拡大要求はとどまるところを知りませんでした。ヒトラーはチェコスロヴァキアを解体し、ノルウェーにも侵攻します。宥和政策は失敗に終わりました。

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