ヨーロッパの歴史

キリスト教勢力がイベリア半島で行ったレコンキスタとは何か。わかりやすく解説します。

レコンキスタ(国土回復運動)とは、スペイン語で「再び征服する」という意味で、イスラム王朝であるウマイヤ朝に征服されたイベリア半島をキリスト教徒が取り戻すといった意味合いで用いられる言葉です。レコンキスタは8世紀から15世紀まで800年近くに及ぶ長期間の活動となりました。今回は、レコンキスタの背景となったイスラム勢力の拡大、レコンキスタの流れなどについてわかりやすく解説します。

イスラム勢力のイベリア半島進出

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7世紀初頭、メッカのムハンマドがイスラム教を創始しました。以後、イスラム教は急激に勢力を拡大。ウマイヤ朝時代には西は現在のパキスタン・アフガニスタン、東は北アフリカまで領土を拡大しました。そして、ウマイヤ朝は海を渡りイベリア半島に進出。西ヨーロッパをも飲み込もうとしていました。

アラビア半島を中心に、東西に拡大するイスラム帝国

7世紀前半にアラビア半島を統一したイスラム勢力は642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを打ち破ると、またたくまにイラク・イランなどササン朝の領土だった地域を征服しました。

その一方、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)に対しても攻勢を強めます。その結果、ビザンツ帝国からシリアやエジプトなどを奪うことに成功しました。イスラム教徒であるムスリムの支配地がどんどん拡大します。

このころ、イスラム勢力のトップに君臨していたのはムハンマドの後継者であるカリフ。661年、ムハンマドの親族でシリア総督だったムアーウィヤが第4代カリフのアリーと争い、アリーの死後、自らカリフを称しました。これが、ウマイヤ朝の始まりです。ウマイヤ朝は地中海沿岸の北アフリカを次々と征服。イベリア半島にも迫りつつありました

ウマイヤ朝軍のイベリア半島進出と西ゴート王国の滅亡

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパ各地はゲルマン人の諸王国によって支配されました。イベリア半島を支配したのはキリスト教・アタナシウス派に改宗したゲルマン系西ゴート人の王国です。

711年、ウマイヤ朝軍12,000はイベリア半島に上陸しました。対する西ゴート王ロデリックは30,000余の軍勢を率いてグアダルーペ河畔でウマイヤ朝軍を迎え撃ちます。3倍の兵を有する西ゴート軍が優位に思えましたが、まともに戦ったのは国王直属部隊だけでした。

国王軍の両翼に布陣していた西ゴート貴族たちは王の命令に従わず、戦いを傍観していたのです。その結果、西ゴート軍は戦いに敗れ国王ロデリックは行方不明となりました。

戦いの後、ウマイヤ朝軍はイベリア半島の大半を支配下に置きます。西ゴート貴族の生き残りはイベリア半島北西部にアストゥリアス王国を建国し、かろうじて勢力を保ちました。

イスラム勢力の拡大阻止!フランク王国軍、トゥール=ポワティエ間の戦いで勝利

西ゴート王国を滅ぼし、勢いに乗るウマイヤ朝はピレネー山脈を越えて現在のフランスに侵攻します。当時、フランスを治めていたのはフランク王国でした。フランク王国の最高実力者であるカール=マルテルは直ちに軍を招集し、ウマイヤ朝軍を迎撃します。

732年、フランク王国軍とウマイヤ朝軍はトゥールとポワティエの間の地で激突しました。ウマイヤ朝軍は主力の騎兵部隊を突出させてフランク王国軍を突き崩しにかかりますが、カール=マルテルは冷静に対処。重装歩兵で守りを固めます。

激しい戦いのさなか、ウマイヤ朝軍の司令官が戦死。これを機に、ウマイヤ朝軍は撤退しました。こうして、イスラム勢力拡大はカール=マルテルによって阻止され、ウマイヤ朝の支配はイベリア半島でとどまります

後ウマイヤ朝の成立とイベリア半島のイスラム諸王朝

750年、イスラム世界に衝撃が走ります。アッバース家がクーデタを起こし、ウマイヤ朝を滅ぼしたのです。イスラム世界の中心はアッバース朝の支配下に入りました。

その一方、ウマイヤ家の一族はイスラム世界の西の果てであるイベリア半島に逃れます。そうして出来上がったのが後ウマイヤ朝でした。後ウマイヤ朝はコルドバを都とし、西方イスラム世界の中心として繁栄します。

10世紀に最盛期を迎えた後ウマイヤ朝は11世紀前半に内紛で滅亡。以後、イベリア半島は北アフリカに本拠を置くムラービト朝やムワッヒド朝、地方のイスラム系小王国、北部のアストゥリアス王国やレオン王国などのキリスト教諸勢力が混在する時代を迎えます。

どうして、レコンキスタがおきたのだろうか

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キリスト教勢力によるレコンキスタが活発化した最大の理由は西ヨーロッパ世界の生産力が回復したからです。生産力が上がれば、農作物や手工芸品を運ぶ流通も活発化。特に、海上交通の活発化はイタリア半島の都市国家に強力な海軍を作らせるきっかけになりました。イスラム勢力に押し込まれる一方だったキリスト教勢力は、満を持して外に向けて拡大します。それが、十字軍でありレコンキスタでした。

人口が増え、新たに土地が必要になった西欧諸国は外に向けて拡大し始めた

ゲルマン人の大移動が終わり、西ヨーロッパ各地に諸王国が成立すると貴族や騎士が支配する荘園が各地にできました。彼らは自分たちの領地に住む農奴を使い、農業生産力の向上を図ります。三圃制や馬に犂を引かせて行う農耕などを導入することで、それまで以上に農作物が収穫できるようになりました。

すると、各地で人口が増加し土地が不足してしまいます。そこで、ヨーロッパ諸国は大規模な拡張を始めました。簡単に言えば、非キリスト教徒の土地を征服し、領土を拡大しようということです。

ドイツでは現在のポーランドやバルト三国方面に向かって領土拡大をする東方植民が盛んになります。のちに教皇主導で行われる十字軍は中東への領土拡大でした。そして、レコンキスタもそうした領土拡大の一環だったといえます。

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