宗教改革を起こした「マルティン・ルター」とは?世界史にどう影響したの?神学や歴史の観点から解説
どんな状態だったの?記録やエピソードから辿るカトリック・教皇庁
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宗教改革が起こるまでに、免罪符(贖宥状)の販売やカトリック聖職者の増長が激しく……と教科書に書いてあっても、いまいち実感がわかないですよね。この記事はキリスト教やカトリックを批判する意味合いはなく、中立の立場で書くものです。しかし残っている記録や有名なエピソードから、宗教改革当時の状況を紹介してみましょう。
セレブ?神の代理人?権力者としての聖職者
一言で言うと、高位聖職者はセレブリティ生活を送っていました。修道院は貴族の次男三男など名門の子弟であふれ、金と知恵知識が集まっていくバチカンはやがて豪奢な生活におぼれます。ルネサンス期の豪華な芸術はセレブたちの高貴な趣味の結晶です。一方で田舎の神父などは文字もろくに読めず、公教要理(信仰生活マニュアル)を頼りに生活をしているような場所もありました。
神から権能を受けている神父や聖職者が罪をゆるせばOK、ダメなら破門や異端審問。もちろん人の魂を救う立派な人格を持つ聖職者は、昔も今もたくさんいます。しかし向上心を無くし欲に走った聖職者が多かったのも確かです。
この腐敗が後にルターの唱える、神のみことばを信徒が聖書からダイレクトに確認する「聖書主義」・聖職者に過度な権能を与えない「万人祭司」につながっていきます。
ルネサンス末期のローマ教皇には愛人も息子もいた!?
カトリックの聖職者は男も女も独身です。これはイエス・キリストの花嫁となるという概念のもとで、現在にいたるまで継がれている伝統。しかし中世を経て神の代理人としてイケイケの権力者となったローマ教皇(法王)。皇帝を破門したり、芸術家を呼び寄せて豪奢な礼拝堂を作ったり、次第に金と権力が教会にはうなっていきます。
著名な政治書、マキャベリ「君主論」のモデルとなったチェーザレ・ボルジアは、なんと時の教皇の実の息子……当時の教皇は愛人を何人もかこっていたのです。聖職者になるために神様と約束した、純潔・清貧・服従の誓いもなんのその、もはや高位聖職者はただの政治家になっている始末でした。
贖宥状(免罪符)のはじまりは献金目当ての政策。「赦し」の権能が聖職者すなわち人間にある以上、聖職者は神の代理人として最強の権力をふりかざしてしまう……愛と赦し、罪の自覚と悔い改めによって人の心をなぐさめるキリスト教本来の教えと、実情はどうしようもなくかけ離れていました。
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「神様が判断するんだから、人間は黙って信じて良い行動をしてればいいんだ!」つまり「義の判断」を人間ではなく神がする、とシフトしたことで楽になったのです。ルターは信徒たちも「自分は神様の前で正しくない」問題を抱え、強く葛藤しているのを知ります。またこの神の義問題はカトリックの腐敗の根本にもなっていると確信。カトリックのように人間が判断するのではなく、人の善し悪しは神が判断すればよいのだ――ルターのこの思想はカトリックの権威を徹底的に排除しかねない思想でした。
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教会の扉に意見状を貼り出すなんていい度胸!カッコいい!と思っちゃいますが、教会の扉を掲示板にしちゃうのは、当時はわりとよくある光景。「論題」の中で贖宥状批判の他、ルターは特定の修道会へ意見をしていました。なーんだまた修道会同士の派閥ゴタゴタかぁ……聖職者たちは生ぬるい反応をしていたのです。
しかしこの時代に誕生していた文明の利器が運命を変えます。グーテンベルクの印刷機です。95か条の論題はもともとラテン語でしたが、誰かがドイツ語に翻訳。活版印刷により刷られたビラとなってヨーロッパ中に流布し、その内容が無数の人の共感を集めたのです。長くわだかまっていた不満と違和感に火がつき、爆発的な勢いで改革へと向かっていきました。カトリックへの対抗者――「プロテスタント」の誕生です。
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