驚くべきスピードで完成した木幡伏見城
宇治川の川べりにあった指月伏見城が倒壊した直後、北東の木幡山に新しい城が築城されました。ちょうど伏見桃山城キャッスルランドがあった場所で、現在も模擬天守閣が建っています。
1596年7月には作事が始まり、翌年5月には天守閣を含むほとんどの城地が完成していますから、とてつもない突貫工事だったことが伺えますね。動員された労力も相当なものだったことでしょう。もちろん指月伏見城の廃材を再利用することができたからこそ可能だったのです。
江戸時代も含めて、現在のように計画的な植林などが行われていなかった時代ですから、建築用資材となる木材や石材は大変な貴重品でした。安土城や福知山城なども、石仏を石垣や階段代わりに使っていたといいますから、その調達に苦慮していたことが分かっています。だから廃城となった城の資材が、当時は積極的に活用されていたのですね。
わずか一年余りしか在城しなかった秀吉
城が完成すると同時に移ってきた秀吉ですが、年齢はすでに60を越え、朝鮮出兵も思うように進まず、幼い秀頼の安泰をひたすらに願うことだけが生きがいになっていました。その老耄ぶりは誰の目にも明らかで、豊臣家に漂う暗雲を憂う者も多かったことでしょう。
伏見にある醍醐寺の造営を済ませた秀吉は、1598年3月、盛大に醍醐の花見を催しました。しかし、それが終わる頃から病床に臥せることが多くなり、同年7月、ついにその波乱の生涯を閉じました。
新造なった木幡伏見城に在城すること、わずか1年余り。あまりにも短すぎる期間でした。それと同時に豊臣家を頂点とする諸大名のパワーバランスが大きく崩れることとなり、伏見城もまた運命を共にするのです。
政治の主導権争いの中、焼け落ちた伏見城
秀吉の死後、後継者たらんと目論んでいたのが徳川家康でした。豊臣恩顧の大名同士の反目をうまく利用し、勢力を確実に伸ばしていたのです。しかし、自他ともに認める後継者となるためには、反徳川勢力を一掃することが必要不可欠でした。
そこで会津(現在の福島県)の上杉景勝に言いがかりをつけ、その上で討伐軍を編成して東へ向かいます。畿内を留守にすることで反徳川勢力をあぶり出し、彼らが挙兵するのを待っていたのでした。秀吉の遺言に従って伏見城に移っていた家康は、反徳川勢力が蜂起した際、真っ先に伏見城が狙われることを見越して、信頼する家臣、鳥居元忠に留守居を申し付けたのです。
1600年7月、予想通り家康の留守を狙って挙兵した石田三成らの西軍は、4万の大軍で伏見城を囲みました。対する元忠を主将とする徳川勢はわずか2千ほど。誰の目にも勝負の帰趨は明らかでしたが、徳川勢は粘り強く戦い続けて伏見城は容易に落ちません。10日あまりの後、最後は全滅しますが、城もこの時に焼け落ちてしまいました。木幡山に築城されてから、わずか3年。あまりにも短い生涯の城でした。
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伏見城の血天井が現存する養源院
京都駅から東へ向かうと、三十三間堂のすぐ近くに養源院という寺院があります。元々は豊臣秀吉が浅井氏の菩提を弔うために創建されましたが、ここには伏見城攻防戦の折に、鳥居元忠主従が自害した時の床板が天井板として使われているのです。
俵屋宗達作の象や麒麟などの襖絵もあるため写真撮影は厳禁ですが、暗い堂内に、血で染まった手のひらや足跡などが浮かび上がり、往時の熾烈な合戦の様子を伺い知ることができるのですね。
小さい寺院ですから、場所的にあまり目立ちませんが、道路に面して「血天井」と大きく書いた木札が立っていますので、大変わかりやすいと思います。
徳川氏によって三代目伏見城が再建される
関ヶ原合戦の前哨戦でもあった伏見城攻防戦によって、木幡伏見城は焼け落ちてしまいましたが、すぐに再建に取り掛かっています。なぜ徳川氏がわざわざ再建させたのか?そこには徳川家康の用意周到な思惑が透けて見えるのです。