京都市にあった豊臣家の屋敷跡、聚楽第
京都のほぼ中央部。かつては天皇の御所があった場所は内野と呼ばれ大きな空き地となっていました。関白に就任した豊臣秀吉は1585(天正13)年に大邸宅の建造を命じました。その建物こそ聚楽第です。この時代、京都には織田信長によってつくられた二条城がありました。信長の二条城を上回る規模である聚楽第の歴史を見てみましょう。
秀吉が聚楽第を建てた目的
豊臣秀吉は山崎の戦でライバルの明智光秀を打ち破り、信長の後継者として天下統一を目指します。1585(天正十三)年、秀吉は公家の最高位であった関白の座に就任。関白の地位は天皇の臣下でもっとも権威があり、天皇の代理として政治をとる役職でした。
となると、秀吉は大坂城にいるだけではなく、頻繁に京都に滞在して天皇のそばにいければなりません。そこで、秀吉は京都の中心部で広大な空き地となっていた内野に政庁兼邸宅である屋敷を作らせました。これが、聚楽第です。
秀吉が聚楽第に向かえた買った人物が時の天皇である後陽成天皇でした。1588(天正十六)年の春、後陽成天皇がついに聚楽第を訪れます。天皇行幸の二日目、聚楽第に集められた諸大名は、天皇の前で秀吉に逆らわないことを誓う起請文を提出しました。豊臣政権の権威を見せつけた瞬間でした。
聚楽第の名前について
日本史の教科書などでは「じゅらくだい」と読ませますが、当時の人々は「じゅらくてい」とも呼びました。広辞苑によると聚楽とは、長生不老の楽しみを集めたといった意味の言葉です。
宣教師のルイス=フロイスの『日本史』によると、聚楽は秀吉自らの命名と書かれています。それ以前の用例が乏しいことなどから、秀吉の造語の可能性が高そうですね。
聚楽第は当時の記録で「聚楽亭」「聚楽屋敷」「聚楽城」「聚楽館」などとも記されています。後陽成天皇の行幸を記録した『聚楽行幸記』には、「聚楽第」「聚楽亭」などとも書かれていますので、読み方は「じゅらくだい」でも「じゅらくてい」でも構わないと考えてよいでしょう。
聚楽第の規模
聚楽第は屋敷というよりも城としての形を持っています。中心部を本丸とし、西の丸と南二の丸、北の丸の三つの曲輪ももっていることから本格的な平城。周囲には堀を巡らしていたこともわかっています。中心部に天守があれば立派な城郭だといってもいいですね。
しかし、武骨な城というよりは秀吉好みの派手な城だったようです。屋根には金箔瓦、周囲には美しい白壁。白亜の御殿といった感じでしょうか。
秀吉が京都に城を作ったのには理由があります。京都は周囲が開けているため、決して防御に適した街ではなかったからでした。二条城ではない新たな屋敷を作るとき、秀吉は自分が襲われた信長のように殺されてしまわないよう、防備を万全にしたと考えられます。
聚楽第のその後
豊臣秀吉が関白職を甥の豊臣秀次に譲ると聚楽第も秀次の邸宅となりました。ところが、この世代交代が聚楽第の運命を大きく変えていくことになります。
最高権力者である太閤秀吉と現関白の秀次の関係が悪化するきっかけは、秀吉に待望の男子である拾丸、のちの秀頼が生まれたことでした。関白職をわが子に継がせたい秀吉にとって、秀次の存在は疎ましいものに変わっていきます。秀次と聚楽第の運命はどうなるのでしょうか。
太閤秀吉と関白秀次の対立
1591(天正十九)年、豊臣秀吉は関白の職を甥の秀次に譲りました。秀次は関白になると秀吉から聚楽第を与えられます。当初、秀吉と秀次の関係は問題ないように思えました。
しかし、秀吉に実子秀頼が誕生すると様子が変わってきます。秀吉は朝鮮出兵の準備のため九州にいたのですが、秀頼誕生の知らせを聞いて大坂に舞い戻りました。豊臣家にとってめでたい出来事でしたが、秀吉の跡継ぎとしての秀次の立場は危うくなりました。
というのも、秀吉とすれば自分の子供がいないから甥の秀次に豊臣家を譲ろうとしたわけで、自分の子供が生まれると話は変わってきます。早すぎた自分の隠居を後悔したかもしれません。京都の聚楽第にいる秀次と京都南部の伏見にいる秀吉との間で緊張感が高まってきました。
秀次切腹事件と聚楽第の破却
1595(文禄四)年、突如、秀次に謀反の噂が持ち上がります。『信長公記』の著者でこの意見を記録した太田牛一は『大かうさまくんきのうち』で「鷹狩と称して、人のいない山の中で謀反を相談した」と記録。この噂が流れて間もなく、秀次は石田三成らの取り調べを受けました。
秀次は無実を訴えましたが、秀吉や側近たちは耳を貸そうとしません。秀次は秀吉に弁明するために伏見を訪れますが問答無用でとらえられました。取り調べの後、秀吉は秀次に切腹を命じます。この時の秀吉の処置は過酷なものでした。秀次だけではなく秀次の妻や子供たちなど一族皆殺しにされます。この時、秀吉は聚楽第の破却も命じました。そのため、聚楽第の遺構は現代に全く残らなかったのです。
現在の聚楽第跡地
現在、聚楽第があった場所には「聚楽第址」と刻まれた石碑が残されています。この石碑以外に、地上で聚楽第の痕跡を確認できる遺物はありません。
1992(平成四)年、ハローワーク西陣の建て替え工事中に聚楽第の跡地から金箔瓦600枚が出土しました。本丸の建物を壊したときに堀に捨てられたものと考えられています。その後も工事のたびに聚楽第の遺物が発見され、石垣などを発見。これらの発掘調査により、聚楽第の堀の位置や石垣の場所などを特定できるようになりました。
これによれば、秀次が増築した部分を除き、聚楽第はかつての平安京大内裏とほぼ同じ位置で建てられていたことが分かっており、秀吉が朝廷の権威を利用しようとしていたのではないかと考えられます。
現存する唯一の遺構、大徳寺唐門
聚楽第にあった建物の多くは有名寺院や伏見城に移築されたとされています。その大半は火災にあったり戦争で焼かれたりして現存していません。特に伏見城は関ケ原の合戦の直前におきた伏見城攻城戦で炎上したので豊臣時代のものはほとんど残っていません。
そんな中、聚楽第から移築されたと確実に特定できるのが大徳寺の唐門です。日光東照宮の日暮門のモデルとなったとされます。門の痛みが激しかったですが修復工事を経て当時の極彩色の姿を取り戻しました。華麗な彫刻が刻まれ当時の華やかさがしのばれます。
門一つでこれなのですから、聚楽第が現在まで残っていたとしたらさぞかし豪華絢爛だったでしょうね。ともあれ、聚楽第はわずか8年でこの世から姿を消したのでした。
わずか8年の栄耀栄華
現代ではゲームなどでも取り上げられ、知名度が高い聚楽第。豪華絢爛と伝えられながらも実態がほとんど分からない建物だったんです。その分、とてもミステリアスで秀吉の栄華を想像するときに人々が思い思いの「聚楽第」を描けたのかもしれませんね。
黄金王ともいえるほど金に執着した秀吉の傑作のひとつである聚楽第。たった8年で消えた幻の建造物。歴史のロマンを掻き立てられずにはいられません。まさしく「兵どもが夢のあと」ですね。