安土桃山時代日本の歴史

謎多き伏見城の真実に迫る!【伏見城から移された建築物もご紹介】

関ヶ原合戦後の政情を落ち着かせるために再建

1600年9月、関ヶ原の合戦において東軍が勝利。家康はまんまと反徳川勢力の一掃に成功しました。この時に西軍に付いた諸大名たちの領土を没収し、東軍側に付いた大名たちですら加増の上、あちこちに転封させて全国規模でシャッフルするような作業が行われましたが、それはもっと後の話になります。

関ヶ原合戦の直後に、まず家康が手を付けたのが政情や民心の安定でした。いくら口実では「秀頼公の御ため」とはいっても、家康が天下を奪うつもりであると看破している人々も多く、そういった声を打ち消すために彼が取った行動が、伏見城の再建だったのです。

秀吉が愛した伏見城を同じ場所に再建すれば、人々はみな「やはり家康殿は豊臣のために働いておられるのだ」と評価するでしょうし、豊臣恩顧の大名たちを安心させることにも繋がります。だからこそ伏見城が焼けた直後から再建が始められ、瓦には豊臣家の家紋である桐紋が使用されていたのです。

伏見城、ついに廃城となる

1603年、もうそろそろ安心かと思ったのか、徳川家康は伏見城において将軍宣下を受け、徳川幕府が開かれました。この後、3代将軍家光の頃まで伏見城で将軍宣下が執り行われています。

伏見城の役目はまだ終わりません。大坂の陣では幕府軍の前線基地として機能し、将軍が京都へやって来た際には居館として使用されました。しかし豊臣家が滅び、徳川の世が盤石なものになると、伏見城は急速にその役割を失っていくのです。

それもそのはず。豊臣恩顧の多くの大名が取り潰され、残った家もとっくに代替わりしています。あの大坂城ですら豊臣の痕跡を完全に消し去った上に盛り土をして再建されたくらいですから、今さら太閤秀吉の象徴ともいえる伏見城を残しておく理由はありませんでした。

1623年、伏見城は廃城となり、二度とそこに城が造られることはありませんでした。

現在も見学できる!伏見城から移築された遺構の数々

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伏見城が廃城になってから約400年。かつての城そのものはありませんが、伏見城の一部として使われていた建築物は現存しています。移築されて今なお見学できる遺構の数々をご紹介していきましょう。

御香宮神社の表門【伏見城大手門】京都市伏見区

秀吉の時代に伏見城へ移されていましたが、徳川氏が城を再建すると現在の場所に戻されました。御香宮神社の表門は、秀吉築城の木幡伏見城の大手門を移築したと伝わっており、国の重要文化財にも指定されています。

切妻造りの単層門となり、安土桃山時代の豪壮さを今に伝えるもので、当時は豪華な彩色が施されていたことでしょう。また、手水舎の水は「御香水」と呼ばれ、環境省の名水百選の一つに選ばれているほどの有名な水です。

源空寺の鐘楼門【伏見城の櫓?】京都市伏見区

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By Tagao0707投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

京阪電車伏見桃山駅から伸びる商店街の奥まったところ、普段はなかなか目立たない場所に源空寺は建っています。二代将軍秀忠、三代将軍家光の頃に、この場所に移転させたと伝えられていますから、おそらくは徳川氏が再建させた伏見城の遺構なのでしょう。

二階建ての鐘楼門として現存しており、往時は二層の櫓だったと思われます。一階部分には、秀吉の持念仏で伏見城に安置されていた朝日大黒天像が祀られていて、この寺に移された経緯から、かつてこの一帯は新大黒町と呼ばれていました。

明石城坤櫓【伏見城三重櫓】兵庫県明石市

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By Tomomarusan – This is the creation of Tomomarusan, CC 表示 2.5, Link

1619年、最後の天下普請で築かれた明石城は、徳川幕府の西の拠点【大坂城】の西方を守るために重要視されました。譜代のトップエリート小笠原忠政が初代となっています。天守台は元々からありましたが、結局、天守閣は築かれずに終わり、その代わり4基の三重櫓が威容を誇っていたのです。(現在は2基が残るのみ)

その中でも坤櫓(ひつじさるやぐら)は江戸期伏見城の遺構だとされており、あの阪神淡路大震災の時も耐え抜いた重厚な造りをしています。毎年3~11月までの土・日曜と祝日、交互に一般公開されていますので、ぜひ見学してもらいたいところですね。

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明石則実