三国時代・三国志中国の歴史

蜀の諸葛亮のライバル「司馬懿」ー魏の名将についてわかりやすく解説

関羽の猛勢の前に遷都を考えた曹操を思いとどまらせた進言

219年、劉備軍は漢中を攻め取り勢いに乗っていました。荊州の守備を任されていた関羽はこの機に乗じ魏の領内に攻め込みます。魏の守将曹仁は樊城に立てこもり、関羽に抵抗しました。

救援要請を受けた曹操は于禁らに軍を与え樊城救援に向かわせます。ところが、救援軍は関羽の前に敗北。総司令官の于禁が降伏してしまいました。

報告を受けた曹操は関羽のあまりの勢いに、荊州に近すぎる許昌から別の場所に都を移そうとさえ考えます。司馬懿は遷都に反対。その上で、司馬懿は荊州をめぐってたびたび劉備と争っていた孫権を味方につけ、関羽を背後から襲わせるべきだと提案します。

曹操は司馬懿の進言を受け入れ、孫権を味方につけることに成功しました。樊城の魏軍と背後の孫権軍に挟み撃ちにされた関羽は敗走の途中で孫権軍につかまり斬首されます。

ライバル諸葛亮率いる蜀の北伐軍との戦い

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三国志後半の見せ場といえば、諸葛亮による北伐とそれを防ごうとする魏軍との攻防戦です。魏軍の中心となって諸葛亮と相対したのが司馬懿でした。司馬懿は速攻で孟達の寝返りを防ぐと、持久戦で諸葛亮を釘付けにします。しかし、諸葛亮が最後に仕掛けた計略により、蜀軍潰滅を成し遂げることはできませんでした。

電光石火、裏切った孟達を討伐

曹丕の死後、三代皇帝となった曹叡の元でも司馬懿は重臣として朝廷で重きをなします。228年、蜀から投降し曹丕に重用されていた孟達諸葛亮の誘いに乗り内応を企てました。

孟達の動きを知った司馬懿は、朝廷の許可を得ることなく電光石火で孟達の守備していた上庸に迫ります。通常は1か月近くかかる行軍期間を昼夜兼行の強行軍でわずか8日に縮めました。

司馬懿が攻め込んでくるとしても、1か月以上はかかると考えていた孟達は完全に虚を突かれます。孟達は司馬懿の電撃戦の前にあっけなく敗退。討ち取られてしまいました。

司馬懿の機動戦の前に、出鼻をくじかれた蜀軍は大いに動揺します。そのあとで行われた街亭の戦いでも敗北した蜀軍は一時撤退を余儀なくされました。

五丈原の持久戦で蜀の勢いを止める

魏の西部方面司令官で、蜀軍と対峙していた曹真が231年に死去すると、司馬懿が司令官の座を引き継ぎました。諸葛亮は街亭での敗戦後も北伐の機会を狙い、何度も北へと兵を進めます。

諸葛亮は局地的な戦いでは魏軍に勝利しますが、決定的な勝利は得られません。そのうちに、補給が途絶えるなどして蜀軍は撤退に追い込まれ続けました。

234年2月、諸葛亮は魏への遠征を再開。魏の西部地域の中心である長安を目指します。司馬懿は渭水の南岸に砦を築き、蜀軍を迎撃しました。司馬懿は、長期戦に持ち込み蜀軍が食料を食べつくすのを待つ戦略に出ます。

諸葛亮は北上して五丈原の付近に着陣。連日、魏軍を挑発して決戦を挑みました。しかし、司馬懿は全く応じません。皇帝曹叡の使者も諸将に出陣を禁じたため、魏の諸将は挑発に耐えて陣の守りを固めます。234年8月、諸葛亮は五丈原の陣中で病没。蜀軍は撤退していきました。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

孔明とは諸葛亮の字(あざな、成人後に自らつける名前)、仲達とは司馬懿の字です。234年8月、陣中にいた諸葛亮は死の床についていました。『三国志演義』では、司馬懿が諸葛亮の死を知ったシーンを天文観測の場面で描いています。

当時、国の行く末や有力な人物の未来は星占いで分かると考えられていました。天には人物を表す「将星」があると考えられ、諸葛亮にも将星がありました。

ある夜、天を見ていた司馬懿は諸葛亮の将星が流れ落ちるのを目撃します。司馬懿は諸葛亮の死を確信し、蜀の陣を攻撃させました。しかし、蜀軍は魏軍の攻撃に全く動揺を示さず、整然と反撃の体制を取ったことから、諸葛亮の罠かと思った司馬懿は慌てて兵を引き上げてしまいます。

死んだはずの孔明(諸葛亮)が生きている仲達(司馬懿)を敗走させたことからできた故事成語が「死せる孔明生ける仲達を走らす」というわけですね。司馬懿がこの言葉を聞いたとき「生きている人間を相手にするのはよいが、死んだ人間を相手にするのは苦手だ」と語ったといいます。

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