三国時代・三国志中国の歴史

蜀の諸葛亮のライバル「司馬懿」ー魏の名将についてわかりやすく解説

魏王朝内部の権力闘争に勝利し、魏の実権を握る

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諸葛亮の死後、司馬懿や都に戻ります。遼東でおきた公孫淵の反乱を1年ほどで鎮圧した直後に皇帝の曹叡が死去しました。司馬懿は曹真の子である曹爽(そうそう)とともに四代皇帝曹芳の補佐を委ねられます。その後、司馬懿は曹爽との権力闘争に勝利し、魏で絶対的な権力を握りました。その力は子の司馬師、司馬昭に引き継がれ西晋王朝建国へとつながります。

公孫淵討伐と遼東制覇

238年、後漢末期から遼東半島で勢力を持っていた公孫淵が燕王を自称し魏に対して独立を宣言しました。公孫淵は呉に支援を要請し、魏軍と徹底抗戦する構えを見せます。

魏では司馬懿が公孫淵討伐を命じられました。曹叡は司馬懿にどのくらいの期間かかるかと尋ねると、往路100日、戦闘100日、復路100日、休養等を含めて考えると1年程度で鎮圧できると回答します。

司馬懿軍は公孫淵軍の防衛線を迂回し本拠地の襄平を奇襲。公孫淵の対応は後手に回り、城に追い込まれました。司馬懿軍は公孫淵軍を包囲。兵糧攻めにしたうえで総攻撃します。

公孫淵は脱出をはかりましたが失敗し捕らえられ、司馬懿によって処刑されました。司馬懿は、二度と遼東で反乱が起きないように15歳以上の男子を皆殺しにしたといいます。

クーデタで反対派を一掃し、司馬懿が魏の実権を握る

司馬懿が都に戻って間もなく、曹叡が死去しました。曹叡は四代皇帝となった曹芳の補佐を委ねられます。司馬懿とともに曹芳の補佐を担ったのが曹爽でした。

曹爽は司馬懿を名誉職の太傅に任じ実権を取り上げようとはかります。司馬懿は無理に曹爽と争わず、一見引退したかのようにふるまいました。

また、曹爽派の李勝が病気見舞いと称して偵察に来たときは、李勝の発言をわざと聞き間違えたり、薬を飲むときにこぼす様子などを李勝にみせつけて、病で弱っている演出を信じさせます。

曹爽は次第に油断し、好きな狩りに熱中するようになりました。249年1月、曹爽が皇帝曹芳の供をして都の洛陽を留守にした機会をとらえてクーデタを敢行。曹爽を降伏させ魏の実権を完全に握ります。

司馬懿の死と司馬昭による権力掌握

クーデタで魏の実権を握った司馬懿は251年に死去します。司馬懿は息子の司馬師司馬昭に「謀反の疑いをもたれないよう、慎重に行動せよ」と遺言しました。

司馬懿の死後、司馬師が魏の実権を握ります。254年、皇帝曹芳による司馬師排斥を知った司馬氏は、皇帝の企てに加担した者たちをことごとく処刑。曹芳も退位させてしまいました。

皇帝は曹叡の后だった郭太后の命令で曹髦(そうぼう)に決まります。司馬師が255年に死去すると、弟の司馬昭が権力の座を引き継ぎました。

このころ、魏の皇帝はもはや司馬一族の操り人形と化していました。実権を取り戻したい皇帝曹髦は司馬昭を排除するため挙兵しましたあっけなく鎮圧され、殺されてしまいます。

司馬昭は曹奐(そうかん)を即位させ、引き続き実権を握りました。263年、司馬昭は鄧艾・鍾会らに命じて蜀を滅ぼさせます。司馬昭が265年に死去するころには、魏は完全に司馬一族によって掌握されてしまいました。

西晋による三国の統一

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司馬昭の後を継いだ司馬炎は、魏の最後の皇帝となる曹奐から皇帝の位を譲られ晋(西晋)を建てます。司馬炎は279年、20万の大軍を出して生き残っていた呉を攻撃。280年、呉の皇帝孫皓(そんこう)が降伏したことにより、中国は久しぶりに統一されました。こうして、長きにわたった三国志の時代に幕が下ろされたのです。

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