三国時代・三国志中国の歴史

蜀の諸葛亮のライバル「司馬懿」ー魏の名将についてわかりやすく解説

『三国志』で有名な魏の曹操、蜀の劉備はほぼ同世代の人物です。関羽や張飛、夏候惇、夏侯淵といった魏や蜀を代表する名将たちも曹操や劉備と同時代人でした。これに対し、呉の孫権、蜀の諸葛亮、魏の司馬懿は曹操や劉備の次の世代です。先人たちが一線を退いた後、三国志は司馬懿らの世代が中心となりました。今回は、三国志の後半で大活躍した司馬懿についてわかりやすく解説します。

若き日の司馬懿

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司馬懿が子供だった頃、後漢王朝の命脈は既に尽きようとしていました。黄巾の乱で国内は乱れ、混乱に乗じた西涼の董卓が大軍をひきいて洛陽に居座り、専横をほしいままにします。司馬懿や彼の一族は激変する後漢末期の政局を何とか乗り切り、次の覇者である曹操に仕官する道を選びました。

董卓の専横と揺れる司馬家

後漢末期の184年、宗教集団太平道の指導者張角は農民たちを組織し、漢王朝に反旗を翻しました。張角の信者らは頭に黄色の頭巾を身に着けていたため、黄巾の乱とよばれます。

黄巾軍は瞬く間に各地を制圧。朝廷は大混乱に陥りました。朝廷は地方の有力者たちに反乱鎮圧を呼びかけます。各地の有力者の協力でなんとか黄巾の乱の勢いが弱まったころ、大将軍の何進が宦官の陰謀で暗殺。怒り狂った何進の部下たちが宦官を皆殺しにしたことで混乱が拡大しました。

この状況を利用して都を制圧したのが西涼の将軍だった董卓です。司馬懿の一族は故郷の河内が戦場となる可能性を考え黎陽(れいよう)に避難します。河内は予想通り戦場となり、多くの人々が亡くなりました。司馬一族が河内に戻ったのは董卓が死んだ後のことです。

勢力を拡大する曹操と曹操に仕官する司馬懿

董卓の横暴に対し、袁紹曹操らは反董卓連合軍の結成を呼びかけました。反董卓連合軍は董卓の軍を破り都の洛陽を占領。曹操は単独で長安に撤退した董卓を追撃しますが敗北してしまいます。

反董卓連合軍が解散したのち、曹操は体勢を立て直しました。192年には青州の黄巾軍を下し、自らの最精鋭部隊である青州兵とします。青州兵を得た曹操は勢力を拡大。200年には官渡の戦いでライバルの袁紹を撃破しました。

勢いにのった曹操は207年に袁紹の子供たちを滅ぼして河北を統一、208年に荊州の劉琮を下して荊州を平定しました。

曹操は勢力拡大と同時に人材確保にも熱心に取り組みます。201年、司馬懿の評判を聞きつけた曹操は司馬懿を登用しようとしました。しかし、司馬懿はこのとき仕官を断っています。

208年、政府のトップである丞相に就任した曹操は改めて司馬懿に仕官を要求。司馬懿はやむなく出仕に応じました。

曹操の息子、曹丕の側近「四友」となった司馬懿

司馬懿は曹操の求めに応じて出仕したのち、曹操の子の一人である曹丕の側近に選ばれました。曹丕の側近のうち、最も信任された四人は「四友」とよばれます。司馬懿は四友の一人として曹丕の厚い信任を受けました。

のちに、曹丕が皇帝に即位すると司馬懿も重用され政府や軍の要職を歴任します。曹丕が呉との戦いで前線に赴くとき、司馬懿は後方の留守政府を任されることが多くなりました。曹丕が司馬懿に全幅の信頼を寄せていたことがわかります。

226年、曹丕が病に倒れると曹真、曹休、陳羣らとともに息子である曹叡(そうえい)の後見を命じられました。曹丕からすれば、自分と同世代で頼りがいのある人物だったからでしょう。曹丕が40歳で死去したのち、司馬懿は3代皇帝曹叡に仕えます。

司馬懿が曹操に行った献策とは

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三国志の中では軍師としての印象が強い司馬懿。官僚、軍人の両方の資質を持っていた司馬懿は幅広い分野で活躍できる人物でした。司馬懿が曹操に対して行った献策の中には、のちの時代まで大きな影響を与えた者もあります。司馬懿がおこなった献策とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

国境地帯での屯田制の実施で財源を確保

黄巾の乱が起きて以降、華北一帯は戦乱で荒廃。人口も大きく減少し、荒れ果てた土地があちらこちらにある状態でした。196年、曹操は洛陽を脱出してきた後漢の献帝を許昌に迎え入れます。

大義名分を得た曹操は、軍備を整え周辺地域の平定をはかりました。そのためには、兵力と財源が必要です。そこで、曹操は屯田制を大規模に実施しました。まず、戦乱で荒れ果て所有者不明となった土地を国が接収。その土地を民に与え収穫の5割を税としておさめさせる仕組みです。

司馬懿は、魏や蜀との国境地帯で兵士たちに同じように屯田させることを提案。これにより、国境地帯では兵力の増強と収入の増加の二つが同時に達成できました。司馬懿と同じ発想で日本の明治政府は北海道で屯田を実施し、ロシア帝国に備えます。

漢中平定後、勢いに乗って蜀を攻めるべきと主張

華北を平定した曹操の勢力は西へと伸びます。211年、曹操は西涼の軍閥であった馬超と交戦。一時は苦戦しますが、最終的には馬超を破り西北地方を平定しました。

曹操の権威は向上し、213年には魏公に昇進します。215年、曹操は漢中の張魯を攻め降伏させました。これにより、蜀への道が開かれます。

ちょうどそのころ、劉備は蜀の劉璋を降伏させ成都に入城しました。司馬懿は劉備が蜀を平定してから一年足らずしかたっていないことから、漢中平定の勢いで蜀まで攻め込むべきだと曹操に進言します。

しかし、曹操は「隴(漢中)を得て蜀を望む」ことはしないといって、司馬懿の進言を退けました。曹操は夏侯淵を漢中の守備に残して都に帰ります。しかし、219年、劉備が夏侯淵を破り漢中を攻め取ってしまいました。

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