大躍進政策を実行するまでの中国
中国最大の失政とも呼ばれ、最終的には大躍進政策によって中国の経済を破綻に追い込んだ毛沢東。しかし、この大躍進政策を実行することになったのはとある安直な理由にありました。
脆弱な経済
1948年に国共内戦に勝利して生産を国民に分配し、平等な社会を目指す社会主義を謳う中華人民共和国が成立。中国共産党のリーダーであった毛沢東は国家主席として中華人民共和国のトップに君臨するようになりました。
しかしし、この頃の中国は今みたいに経済大国ではなく、この当時敵対していたアメリカはおろか、西側諸国にかなり劣っているのが現状でした。さらに、日中戦争や国共内戦によって国土は荒廃。毛沢東はまずは経済の立て直しを急がなければならない状態にあったのです。
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深まるソ連との対立
経済の立て直しを急がなければならない状態が続いていた中国でしたが、1953年にソ連を長年支配していたスターリンが死去。その後継者としてニキータ・フルシチョフがソ連の最高指導者として就任しました。
しかし、これによってソ連を憎み出したのが中国でした。毛沢東はスターリンを尊敬しており、国家の運営の仕方もスターリンと同じような形にしようと着々と国家づくりを進めていました。
しかし、ソ連ではスターリンが死去してフルシチョフが就任した途端にスターリン批判を開始。スターリンの個人崇拝を徹底的に批判。スターリンを批判されたことは中国からしたら国家形式を批判されていることと同じでしたので、この頃からソ連との対立が深まることになります。
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イギリスを追い越すために
ソ連との対立が深まってきた1957年。この年、フルシチョフは「ソ連が工業生産、および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろう」と宣言。これに触発された毛沢東は翌年にソ連が世界第1位のアメリカを目指すのであれば中国は世界第2位の国であるイギリスを15年で追い越そうと第二次5カ年計画を立案。
独裁体制が確立されていたこの時には疑問視なんてことはできないため、この通りに経済計画が立てられることになりました。
そしてこれこそが中国を地獄に引きずり込むきっかけとなる大躍進政策となっていったのでした。
大躍進政策の内容
ソ連と敵対し、基本的に自国で全てを賄わなけれはならなくなった中国でしたが、この大躍進政策はソ連からの援助やノウハウを受けられなくなり、知識がない指導者によって中国の経済や文化を全てぶち壊されてしまいました。
次はその大躍進政策はいったいどのようなものだったのかについて見ていきたいと思います。