維新の三傑!倒幕・近代日本の改革に奔走した幕末の志士たち
幕末から明治にかけて活躍した志士は大勢います。明治時代に入ってから、彼らの活躍をまとめた書籍がたくさん発刊されました。山脇之人の『維新元勲十傑論』には、岩倉具視・江藤新平・大村益次郎・小松帯刀・広沢真臣・前原一誠・横井小楠らの名前とともに「明治の三傑」と取り上げられているのが木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の3人です。今回はこの「明治の三傑」なる人物たちを改めて振り返ってみたいと思います。
冷静と情熱を併せ持つ維新の立役者:木戸孝允
木戸孝允(きどたかよし・きどこういん)は、天保4年(1833年)に長州藩の萩城下に生まれます。幼いころから秀才と呼ばれる一方、剣術にも長けていたのだそうです。
若いころの名前は桂小五郎(かつらこごろう)。何度か名前を変えていることでも知られています。
10代のころは吉田松陰のもとで兵学を学び、松陰とは師弟関係であり友人でもありました。様々な学問を学ぶうちに、木戸孝允は長州藩・改革派(尊王攘夷派:天皇を尊び異国を打ち払うという考え方)を牽引するリーダーとなっていくのです。
彼も、剣術修行のため江戸へ出向いています。木戸孝允の剣術の腕は確かなもので、江戸滞在の5年ほどの間に「剣豪」の名をほしいままに。またこの時期に、砲術や造船術など、その後の近代日本に欠かせない学問技術を学ぶ機会にも恵まれていました。
木戸孝允も、黒船来航に大いに刺激を受けます。これからは西洋に学ぶべき、新しい日本を作るべきと積極的に働きかけ、幕府側から命を狙われながらも京都を中心に精力的に活動を続けたのです。
坂本龍馬のとりなしもあって、敵対関係にあった薩摩藩と手を結び(薩長同盟)、幕府を倒すための協力体制にも尽力。ついに1867年、政権を幕府から天皇へ戻し、明治政府という新しい政治の仕組みを築くことに成功します。
新政府でも重要なポストに就き、ご箇条の御誓文、版籍奉還など、新しい時代の政治の礎となる制度や政策を次々と実行。尊王攘夷派のリーダーとして長年、血気あふれる長州藩士たちをまとめてきた木戸孝允の能力は明治政府内でも大いに役立ちます。
しかし、最終的に、明治政府は大久保利通が中心となり、木戸孝允は徐々に中心から遠ざかることに。さらに子供のころから病弱だった木戸孝允の身体は悲鳴をあげていました。長年の心労が重なり、伏せることが多くなります。
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発。そのさなか、木戸の病が悪化します。大久保利通と西郷隆盛、そして日本の行く末を案じながら、木戸孝允は満43歳でこの世を去ったのです。
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天を敬い人を愛し義に生きた大人物:西郷隆盛
西郷隆盛(さいごうたかもり)は文政10年(1828年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士の家に生まれました。
写真や肖像の類は残っていないことでも知られていますが、身長180㎝以上の巨漢であったと伝わっています。
若いころから、薩摩のカリスマリーダー・島津斉彬に目をかけられ、御庭方役という役職に。斉彬の手となり足となって主を支え続けます。西郷は斉彬の思いを通して、日本の未来のために成すべきことを肌で感じ取っていきました。
しかし島津斉彬は、志半ばにして安政5年(1858年)、この世を去ります。亡き主の意思を継ぐことを決意した西郷は、幕府内の勢力争いに負け、奄美大島へ流されてしまうのです。
ただ、西郷隆盛には人望・人気がありました。幕末から明治への大きな変革を成し遂げるためには、多くの人から慕われ、頼りにされる西郷隆盛の名前は有益であったのです。改革が思うように進まない薩摩藩に担ぎ出され、再び政治の世界に身を投じた西郷。しかし今度は、かねてから折り合いの良くない薩摩藩主・島津久光(斉彬の弟)との軋轢などから、沖永良部島へ遠島。でもまたあれこれ問題が起きたので西郷の力を……と、政治の重要なポストと島流しを繰り返しながら、ついに西郷隆盛は、近代日本の第一歩となる明治政府の擁立を成し遂げたのです。
維新の際には、反発する幕府側の勢力との戦場で先陣に。維新の裏も表も見尽くしてきたと言ってもよいのかもしれません。新政府内では、それまで対立しあっていた藩士同志の争いをおさめる役も務め、参与も務めました。しかし大久保利通中心の政府体制が確立した後は意見の相違などから一線を退き、鹿児島に戻ります。
西郷を慕って、多くの若者が中央を離れ、西郷の下に集まりました。西郷は鹿児島の地で学校を作り、若者育成に奔走。「政府にたてつくために若者を手なずけてクーデーターを起こそうとしている」と政府に目を付けられ、とうとう西南戦争へと発展してしまうのです。
明治10年(1877年)、激しい戦闘の後、西郷は山中で自刃。満49歳でこの世を去ります。
この年、火星の大接近があり、夜空には赤い星が大きく輝いていました。西郷の死を悼む人々はこれを「西郷星」と呼んでいたのだとか。西郷隆盛の人気がうかがえるエピソードとして今も語り継がれています。
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