応永の外寇の背景とは
応永の外寇の背景として、13世紀から14世紀に頻発した倭寇による襲撃があります。いったい、倭寇とはどのような人々だったのでしょうか。また、応永の外寇を行った朝鮮王朝はどのようにして建国されたのでしょう。倭寇や朝鮮王朝の建国をまとめつつ、日本で南北朝を収めた室町幕府3代将軍である足利義満の動向も含めて整理してみましょう。
中国や朝鮮半島沿岸を荒らした倭寇とは
倭寇とは、東アジアで活動した日本人を主体とする海賊のこと。日本人(倭人)が主体となった海賊という意味で倭寇とよばれます。中国を支配する明王朝にとって、倭寇はとても厄介な存在でした。北の遊牧民と南からやってくる倭寇は北虜南倭とよばれ、明を大きく揺さぶる存在となります。
倭寇は活動時期によって二つに区分されました。一つは、13世紀から14世紀の前期倭寇。こちらは、日本人が主体で中国や朝鮮半島の沿岸部を襲撃し略奪をおこないます。
もう一つは中国人が主体の後期倭寇。後期倭寇は15世紀後半から16世紀にかけて活動し、略奪だけではなく密貿易も行いました。
明は建国当初から海外貿易を制限していたため、これに不満を持つ人々が実力で密貿易をおこないます。後期倭寇の首領として王直という人物が有名ですよ。
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倭寇討伐で功績をあげた李成桂による朝鮮王朝の建国
14世紀後半、朝鮮半島にあった高麗はたびたび倭寇による襲撃を受け苦しんでいました。日本で鎌倉幕府が倒れ、南北朝の争乱が激しくなった14世紀後半、倭寇は高麗をたびたび攻撃します。反撃する力が弱かった高麗に対して、倭寇は沿岸部どころか内陸部まで進出し略奪を行いました。
苦しい対倭寇戦を戦っていたのが高麗の将軍である李成桂でした。李成桂は侵入してくる倭寇をたびたび撃退。元が行ってきた内政干渉を断固として拒否し、李成桂は侵入してきた元軍も撃退します。
一連の戦いで勝利した李成桂を高麗の官僚や地方豪族が支持。李成桂は首都開城に攻め込み、高麗王を軟禁。1392年に王位につきました。李成桂に始まる国を朝鮮王朝といいます。かつて、日本では李氏朝鮮とよばれていましたね。
足利義満による倭寇の禁圧
李成桂が倭寇と戦っていたころ、日本では室町幕府3代将軍の足利義満が政権基盤を固めつつありました。義満は京都の室町に「花の御所」を建て、力をつけすぎた有力守護大名を各個撃破し、自身の権威を高めます。
1370年代、義満は今川了俊を九州探題として派遣。南朝勢力が強い九州の制圧を行わせました。今川了俊は1391年に南朝方の征西大将軍良成親王を降伏させ九州での優位を確立します。
李成桂が朝鮮王朝を建てたのと同じ1392年、足利義満は60年以上にわたって分裂抗争を続けてきた南北朝の合一を実現しました。
日本をほぼ統一した足利義満は、明に対し貿易を申し入れます。明は義満の要求を受け入れるかわりに、倭寇の禁圧を要望。義満は倭寇を禁止し、日明貿易をスタートさせました。この影響で、倭寇の活動は急速に収束。朝鮮や中国の沿岸は平穏になりました。
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倭寇被害の再発と朝鮮国による対馬出兵(応永の外寇)
足利義満の死後、あとを継いだ足利義持は父の方針を大きく転換します。倭寇の禁圧についても、義満時代より熱心に行わなくなりました。その隙をついて倭寇は再び活動を活発化させます。そのころ、対馬の支配者である宗氏の当主が交替するなど倭寇にとって活動しやすい条件が整いつつありました。日本側が倭寇を禁圧できないことにいら立ちを募らせた朝鮮王朝は対馬に出兵。応永の外寇がはじまりました。
足利義持の政策転換
1408年、室町幕府の最高権力者となっていた足利義満が死去しました。義満の死の前から4代将軍となっていた足利義持は、独自の行動を始めます。義持は前将軍である義満のやりかたに疑問を持っていたようでした。
特に義持が見直したのは対外関係です。義満は貿易の利益を得ることを優先し、形式面では明に譲っていました。具体的には、義満は明の皇帝の家来としてふるまい、貢物をささげることで貿易の利益を得ます(朝貢貿易)。義持は、朝貢貿易は屈辱的であるとして日明貿易を停止してしまいました。
もともと、室町幕府が倭寇を積極的に取り締まっていたのは日明貿易を行う条件が倭寇の禁圧だったからです。貿易をしないとなれば、倭寇の取り締まりも熱心に行う意味がなくなりました。以後、倭寇は再び活動を活発化させます。