前田家に生まれ、豊臣家で育った深窓の令嬢
豪姫は前田利家(まえだとしいえ)の娘として生まれましたが、利家の親友で子供に恵まれない豊臣秀吉に、養女として迎えられました。天下人への階段を着々と昇っていた秀吉に溺愛されて育った彼女は、やがて同じく秀吉が幼い頃から面倒を見ていた宇喜多秀家(うきたひでいえ)に嫁ぐこととなります。幼少期から大人へと移りゆく時期の彼女の人生は、まさに幸せいっぱいだったのでした。
父の約束により、豊臣秀吉の養女となる
豪姫は、天正2(1574)年に前田利家の四女として誕生しました。母は正室・まつです。
この頃の父・利家は織田信長に仕え、有能な家臣として日々戦場で活躍していました。そして、その同僚にして無二の親友が、若き日の豊臣秀吉だったのです。
しかし、秀吉と妻・ねねには悩みがありました。結婚して何年も経つというのに、まったく子供に恵まれないのです。その一方で、利家はまつとの間に次々と子供が生まれていました。
そして秀吉は、利家にある提案をします。
「次にお前に子供が生まれたら、男でも女でも我々夫婦の子供としてもらいうけたい」
利家はそれを快諾しました。子供を養子に出せるほど、2人の仲が良かったことがわかります。
こうして、豪姫は物心がつくかつかないかのうちに、秀吉・ねね夫婦の養女となったのでした。
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夫・宇喜多秀家
秀吉夫婦のもとで、豪姫は実子同様、それ以上に可愛がられて育ちました。秀吉は戦などで留守にすると、豪姫に宛てて手紙を何通も送るほどでした。
こうして何不自由なく育った豪姫。15歳になると、当時としては結婚適齢期となり、縁談の話が持ち上がります。相手は宇喜多秀家という17歳の若き戦国大名でした。
宇喜多秀家の父・宇喜多直家(うきたなおいえ)は、戦国時代一の梟雄と称される策謀の士で、多くの敵を暗殺して葬ってきた人物でしたが、秀吉とは良い関係を築いていました。その直家が死んだ時、跡継ぎの秀家はまだ10歳と幼かったため、秀吉が引き取り、猶子(ゆうし/家督などの相続が目的ではなく、関係を強めるための養子扱い)として育てたのです。
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絵に描いたような幸せな新婚生活
豪姫も秀家も、太閤・秀吉の秘蔵っ子でした。年齢も近く、すでに互いを見知っていた可能性も高いですよね。となれば、結婚生活もそう心配するものではなかったのかもしれません。
豪姫の夫・秀家は、父・直家とは違い、穏やかで優しい性格だったようです。そして容姿端麗でもあったそうで、2人は似合いの夫婦でした。秀家の居城・岡山城での結婚生活は、幸せそのものだったのです。秀吉の猶子として将来を嘱望された秀家の姿を見ながら、豪姫は心底頼もしく思ったことでしょうね。
相次ぐ父の死、そして運命の関ヶ原
幸せな結婚生活を送っていた豪姫と夫・秀家でしたが、秀吉や前田利家の死によって、歯車が狂い始めていきます。関ヶ原の戦いが起こると、秀家は西軍に付き、敗戦を迎えました。そして宇喜多家は改易となり、豪姫をはじめ、家族は散り散りになってしまうのでした。いったい何があったのか、見ていきたいと思います。
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結婚後も秀吉の溺愛ぶりはすごかった
養父・秀吉の寵愛は結婚しても変わることはありませんでした。秀吉はねねに宛てた手紙の中で、「豪姫が男子だったら関白にしてやったのになあ」と言い、「それでもわしの秘蔵っ子なのだから、お前(ねね)よりも上の官位を与えたいと思うのだ」とまで付け加えています。自分に次ぐ関白の位を男ならば与えたかったと秀吉に言わせた豪姫は、可愛いというだけではなく、聡明さもあったのでしょうね。
また、豪姫は体が弱かったのか、出産のたびに体調を崩していましたが、秀吉は「それはキツネが憑いているからだ!」と言い出し、側近の石田三成(いしだみつなり)らにキツネ狩りの文書を発給させた…などということもありました。お稲荷様に恨みごとの手紙を書いたとも言われており、秀吉の愛はまさに盲目だったということがわかります。
秀吉のキツネ狩りが功を奏したかどうかは不明ですが、この時、豪姫は快方に向かったそうですよ。