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作家「宮沢賢治」の生涯とは?代表作と合わせてわかりやすく解説

生誕からおよそ120年、国語の教科書に載るような著作も多く、子供から大人まで多くの人に愛される童話を数々世に残した作家・宮沢賢治。その名前を聞くと「雨ニモマケズ」の詩を思い浮かべる、という方も多いと思います。今なら、日本人なら誰もが知る著名な作家ですが、生前、その作品が認められることはありませんでした。自然を愛し、故郷を愛した宮沢賢治とは……。今回はそんな、日本を代表する童話作家の生涯と代表作について解説いたします。

日本を代表する童話作家・宮沢賢治の生涯

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世代を超えて、多くの人に読まれ、愛されている宮沢賢治。素朴で美しく、温かみのある文章から醸し出される独特の世界観はどのようにして育まれていったのでしょうか。宮沢賢治は37年という短い人生のほとんどを、故郷の岩手県の自然の中で過ごしました。早速、宮沢賢治の生涯をたどってみましょう。

生まれは岩手県・宮沢賢治の生い立ちとは

宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日、岩手県の稗貫郡(ひえぬきぐん・現在の花巻市の一部)に生まれます。

父・宮澤政次郎、母の名はイチ。父は質屋などの事業を営んでおり、家はなかなか裕福だったと伝わっています。

そんな家に育った宮沢賢治。子供のころから優秀で、学校の成績はオールA。学業のほかにも、時間があれば野山に出かけ、昆虫採集をしたり、河原で珍しい石を拾って標本を作ったりと、岩手の自然に親しむ生活を送っていたようです。

特に石(岩石や鉱物)の採集は中学校に入ってからも、かなり熱心に続けていました。

中学を卒業したころ、高熱が続き、盛岡の病院に入院。このときであった看護師の女性に恋をして「結婚したい」と両親に相談したことがあるそうです。

まだ十代。もちろん両親は反対。宮沢賢治は生涯独身でしたが、女性にまつわるエピソードはいくつか残されています。少々おませな少年だったようです。

自然と親しみ農業と文学に勤しむ日々

成長し、盛岡の農林高校に進学した賢治。寄宿舎に入り、入学式では総代をつとめました。成績は常にトップ。特待生にも選ばれています。

平日は学業に勤しみ、休日は野山に出かけて自然に親しむ。友人たちと仏教の講習会に出かけることもあったそうです。充実した日々を送っていたことが伺えます。

賢治は法華経を信仰しており、後に国柱会に入会するほど熱心でした。このことがもとで、父と溝ができていったとも伝わっています。

農林学校の寄宿舎時代、学友たちとともに同人誌『アザリア』を発行。短歌や短編を掲載。文学の世界にも携わっていきます。

そして学校卒業後も、恩師の勧めもあって研究生として学校に残り、地質や土壌肥料の研究を行っていました。

しかしこのころ、肋膜炎(ろくまくえん・胸膜に炎症が起きる疾患)の診断を受け、山歩きをすることができなくなったため、学校を去ることに。この病が後に結核へつながり、賢治の身体を蝕むことになるのです。

宮沢賢治は1918年(大正7年)、故郷の花巻に帰ります。

最愛の妹の死・そして本格的な作家活動へ

賢治には妹が3人いましたが、特にすぐ下の妹・トシは賢治にとって自慢の妹でした。

トシは郷里の学校を卒業後、東京の女子大学に進学。しかし在学中に高熱を出し、東京の大学病院に入院したことがありました。この時、賢治は母とともに上京し、トシの看病をしています。

女子大を卒業したトシは、花巻に帰り、地元の学校で英語教師の職に就きました。しかしまもなく病が再発。結核にかかってしまっていたのだそうです。

法華経の信仰の一件など、父との考え方の相違などから家を離れていた賢治。東京で創作活動に取り組んだこともありましたがうまくいかず挫折。そんなときにトシの病状を知り、花巻に駆け付けます。

花巻に戻った賢治は地元の農業高校で教師の職に就きますが、1922年、最愛の妹・トシは帰らぬ人となってしまうのです。
失意の賢治。トシの名前を呼び、泣き続けたといいます。トシが亡くなった直後、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の3篇を書きますが、その後半年以上、創作から離れていました。

賢治が再び創作を開始したのは、1924年に入ってから。『春と修羅』を1000部、自費出版しますが、価格が高かったこともあり、あまり売れなかったそうです。

その後出版した『注文の多い料理店』も部数は伸びず、なかなか、世間の評価得ることができずにいました。

闘病生活の末、三十七歳でこの世を去る

1926年、宮沢賢治は教師を辞め、花巻の下根子というところにある別宅に移り住んで一人のんびり暮らし始めます。

自然に囲まれた豊かな時間。ここで賢治は、若いころはあまり好きではなかった農業を行うようになります。生活のためというより道楽に近い農業。近隣の農家たちからは「金持ちの道楽かよ」と冷たい目で見られていたようです。

そんな人々の視線を気にすることなく、賢治は「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」という私塾を立ち上げます。そして今まで自分が得た土壌や地質、肥料などの知識を無料で提供。農家の人々の暮らしに役立つ活動を続けます。

また、1931年には、東北砕石工場というところから、安価な合成肥料の販売計画を持ち掛けられ、これに賛同して石灰を売る営業マンとして活動。この頃、体調を崩し、結核を悪化させてしまいます。

体を壊してしまった賢治は花巻に戻り、闘病生活。ペンを握ることもままならないほど衰えてしまった賢治は、手帳に文章をつづります。その中のひとつが、あの「雨ニモマケズ」です。

1933年9月21日、宮沢賢治は37歳の若さでこの世を去ります。

イーハトーブとは?宮沢賢治が思い描く理想郷

宮沢賢治の作品の中に、たびたび「イーハトーブ(イーハトヴやイーハトーボと書かれていることもあり)」という言葉が登場します。

イーハトーブとは宮沢賢治が作り出した言葉。「賢治の心象中にある理想郷を示す言葉」なのだそうです。

この言葉の語源や意味については様々な説がありますが、宮沢賢治自身は具体的な説明をしていません。一般的には、宮沢賢治の故郷・岩手県を古いカナ書きで書いたときの「いはて」をもじったもの、と考えられています。

まるで古代からあるような、何とも不思議な響きを持つ言葉です。

童話『注文の多い料理店』の宣伝用のチラシに「イーハトヴ童話」という文言があり、おそらく宮沢賢治自身のものと思われる説明文が添えられています。それによると「イーハトヴ」とは地名であり、アンデルセン童話やアリスが迷い込んだ鏡の国のような世界のようなものであり、岩手県である……のだとか。情景が浮かぶような浮かばないような、やんわりとした説明。この一言で、童話の世界にぐいっと引き込まれていきそうです。

改めて読みたい!宮沢賢治の代表作のあらすじと解説

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病に苦しみながらも、言葉を紡ぎ、たくさんの詩や童話を残した宮沢賢治。改めてご紹介するまでもありませんが、あえていくつか、代表作について解説します。以前読んだことがあるという方も、子供の頃を思い出しながらもう一度内容を思い出して、懐かしく感じていただけたら幸いです。

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