室町時代戦国時代日本の歴史

豊臣秀吉に溺愛された秘蔵っ子「豪姫」夫を思い続けた健気な一生を解説

実父と養父を相次いで失う

豪姫と秀家は子供にも恵まれ、仲睦まじく日々を送っていました。

しかし慶長3(1598)年、まず、夫婦2人の父と言うべき存在である秀吉が亡くなります。さらに追い打ちをかけるかのように、翌年には前田利家もこの世を去ってしまいました。

秀吉亡き後、徐々に天下を狙い始めた徳川家康を抑え込めた唯一の存在が、利家だったのですが、これによって、豊臣政権はぐらつき始めます。石田三成など官僚タイプの文治派(ぶんちは)と、戦で功績を挙げることがメインの武断派(ぶだんは)の対立が鮮明となり、やがてそれは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いへとつながってしまいました。

西軍に加担し、敗軍の将となった夫

関ヶ原の戦いが起きると、豪姫の夫・秀家は西軍に加担します。豊臣家とのつながりがあまりにも強かったためですが、秀家は、その父・宇喜多直家のように策略を巡らす人物ではなかったのですね。むしろ真っ直ぐすぎるほどの青年武将だったので、裏工作をしてこっそり徳川方の東軍に寝返ろうなどとは、夢にも思っていなかったに違いありません。

そして関ヶ原の戦い本戦に突入すると、秀家は善戦しましたが、結局西軍は敗北してしまいます。その上、秀家は乱戦の中で行方不明となってしまったのです。豪姫は気が気でなかったことでしょう。

行方不明だった夫と過ごした数日間と、永遠の別れ

ところが、秀家は突然、豪姫がいる大坂の備前屋敷に現れました。戦場を脱出した彼は、薩摩の島津氏を頼って落ち延びようとしていたのです。その途中、どうしても妻に会いたいと、立ち寄ったのでした。

ここで豪姫と秀家は数日間を共に過ごしたと言います。追っ手の目は常に気になったでしょうが、久しぶりの夫婦の時間でした。しかし、これが2人の今生の別れとなってしまうのです。

豪姫この時27歳。秀家は29歳でした。まだまだもっと長く一緒にいられるはずの夫婦の年齢でしたが、歴史の大きな流れは、それを2人に許してはくれなかったのです。

夫に下された裁定:八丈島への流罪

敗軍の将であり逃亡した秀家は、当然、改易され領地を失いました。捕まれば当然、死罪となるはずでしたが、彼は薩摩に逃げ延び、島津氏の庇護を受けてしばらく潜伏します。

しかし慶長7(1602)年、徳川方の目をかわしきれなくなり、ついに秀家は引き渡されることになってしまいました。

ただ、本来ならば死罪になるところを、罪一等を減じられて命だけは助けられました。というのも、かくまってくれた島津氏や、豪姫の兄である前田利長(まえだとしなが)らの助命嘆願があったからなのです。おそらく、豪姫から兄へも要請があったのでしょうね。

とはいえ、死罪ではありませんでしたが、秀家は八丈島に流罪という厳しい処分を受けることになりました。しかも、幼い息子たち2人も共に流されることになってしまったのです。つまり、それは彼らと豪姫が永遠に会えなくなることでした。

引き離されても揺らぐことのなかった夫への愛情

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夫・秀家と息子たち2人が八丈島に流されることとなり、豪姫は彼らと引き裂かれることになりました。再婚してもおかしくない状況でしたが、豪姫はそうせず、残りの人生すべてを夫らへの援助に捧げ、誰とも再婚することはなかったのです。彼女の覚悟が垣間見える、残りの人生の様子をご紹介しましょう。

再婚せず、残りの人生を生きる

夫と息子たちが八丈島に流される時、豪姫は共に行くことを望んだといいます。しかしその願いは聞き届けられず、豪姫は娘を連れて実家の金沢に戻りました。そこでキリスト教の洗礼を受けたとも言われており、そうであるならば、夫や息子のために祈ったのでしょう。

まだ30歳になるやならずの豪姫。名門・前田家の姫君ですから、再婚の話はいくらでもあったはずです。しかし、豪姫は終生どこにも新たに嫁ぐことはありませんでした。彼女の残りの人生は、娘の成長を見守ることと、遠く離れた夫と息子たちを気遣うことに費やされたのです。

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