日中戦争の経緯
満洲国建国後も、日本の中国進出は止まりません。陸軍は河北省・山東省などの華北5省を中華民国から分離させる華北分離工作を決定し実行しました。こうした状況に危機感を抱いた張学良は蒋介石に対し、共産党と手を組んで一致団結して日本と戦うべきだと主張。抗日民族統一戦線の結成のきっかけとなる西安事件をおこしました。その直後、日本軍と中国軍が北京郊外の盧溝橋で戦闘。8年に及ぶ日中戦争がはじまります。
西安事件と第二次国共合作
日本軍による華北分離工作が実行されても、蒋介石は積極的に対応しませんでした。蒋介石は日本軍との戦いよりも、共産党との内戦継続を優先したからです。
1936年、延安の共産党軍と戦う国民党軍を激励するため、西安に来ていた蒋介石に対し、張学良は内戦の停止を訴えました。しかし、蒋介石は聞き入れません。ついに、張学良は蒋介石を軟禁。強引にでも共産党との内戦停止をさせようとしました。蒋介石も張学良の実力行使の前に、内戦停止と共産党との対話を認めざるを得ませんでした。
1937年7月、盧溝橋事件が発生し日中戦争がはじまると、2か月後の9月に国民党と共産党が協力する国共合作が復活。日本に対してともに戦う抗日民族統一戦線の結成で合意しました。こうして、分裂状態の中国は弱体であると考えていた日本の目論見は早々に崩れてしまいます。
盧溝橋事件と南京事件
国共合作からさかのぼること2か月前。日本軍と中国軍は北京郊外の盧溝橋で偶発的に衝突しました。中国軍と日本軍のどちらが先に発砲したかは確たる定説はありませんが、両軍が盧溝橋で軍事衝突したことは間違いのない事実です。
北京郊外での衝突に続き、1937年8月には上海でも日中両軍が衝突。同年12月には中華民国の首都南京を制圧しました。南京制圧の際、日本軍による組織的な虐殺があったとされ、戦後の東京裁判で責任者の松井石根大将が死刑とされました。
蒋介石は日本軍の南京攻略から逃れ、内陸部の重慶に移動。この地で日中戦争の指揮を取り続けます。首都を攻め落とせば中華民国は降伏するという日本側の読みはまたしても外れてしまいました。
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3度にわたった近衛声明と国家総動員法
日中戦争が起きた時の日本の首相は近衛文麿です。近衛内閣は戦争を早期に終わらせるため国民政府を「膺懲(こらしめる)」するとし、宣戦布告のないまま兵力の増派に踏み切りました。しかし、蒋介石は抗戦の姿勢を崩さず、戦争は長期化の様相を見せ始めます。
近衛は1938年1月に出した第一次近衛声明で「国民政府を対手(あいて)とせず」と表明して、蒋介石との交渉を打ち切ってしまいました。同年11月、近衛は第二次近衛声明で「東亜新秩序建設」が戦争目的だと表明。さらに同年12月、善隣友好・共同防共・経済提携を目指すとする第三次近衛声明を発表しました。
この間、近衛内閣は日中戦争継続のため、議会の承認なしに勅令で人員や物資を動員できるとする国家総動員法を制定し総力戦実施のための政策を実行します。日本は簡単に勝利できるとの目算が崩れてしまいました。
蒋介石の抵抗と南京国民政府の樹立
南京陥落後、蒋介石は内陸部の重慶に脱出。日本軍は重慶爆撃や長江中流部の武昌・長沙に侵攻し重慶へと迫ろうとします。しかし、その長大な距離のため、日本軍は重慶に達することができませんでした。
しかも、アメリカやイギリスなどは蒋介石支援のため、ビルマ(現ミャンマー)やフランス領インドシナ(ベトナムなど)から重慶へと物資を運び入れます。この蒋介石支援の補給線を援蒋ルートといいました。日本は援蒋ルート遮断のため、フランス領インドシナに進駐。米英との対立を深めます。
一向に終わりが見えない状況の中、日本は国民政府を離脱した汪兆銘に南京国民政府を樹立させ、中国の分断をはかりますが、うまくいきませんでした。日中戦争が泥沼化する中、日本はアメリカ・イギリスとの太平洋戦争に突入します。
日中戦争のその後
太平洋戦争に突入した日本は、大陸で中国軍と戦う一方、太平洋でアメリカと開戦。日米戦に突入せざるを得ませんでした。1945年に日本が太平洋戦争に敗れ降伏し中国を去った後、中国では国民党と共産党の内戦が再開されます。内戦の結果、蒋介石ら国民政府は敗れ台湾へと落ち延びました。中国本土では毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言。冷戦下での新たな駆け引きが始まります。
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