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5分でわかる「野口英世」日本が世界に誇る細菌学者の生涯・功績をわかりやすく解説

「野口英世(のぐちひでよ)」は、日本が誇る細菌学者です。小さな頃に伝記などで彼のことを知り、「千円札」の顔としても親しみ深い偉人という存在でしょう。障害を克服して、医学の道で「人類のために生き、人類のために死せり」と称賛されるほどの活躍を、世界の舞台で成し遂げています。でも、実は短所も多い人間味ある人物でした。それでは、野口英世の人生をひも解いてみたいと思います。

1.野口英世の生い立ち

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不明Hideyo Noguchi Memorial Hall (野口英世記念館), パブリック・ドメイン, リンクによる

野口英世は、貧乏な家庭に生まれ手に障害を負った不幸な人物です。辛く悔しい思いをした分、人々の人情で成長できたという、幸せな一面あります。でも、その陰には人並みならぬ努力がありました。「人がやってみろ!」といったことはやってみるという、素直な心の持ち主だったことも人生を好転させた要因です。それでは、「野口英世」の生い立ちを見てみましょう。

1-1野口英世の誕生

野口英世(のぐちひでよ)は、明治9(1876)年11月9日に、福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)で貧しい農家の子として生まれました。父佐代助は大酒のみの風来坊で仕事をせず、母シカが農作業をはじめ、奉公や行商、便利屋などをして3人の子を育てました。

幼名は清作で、後に英世と改名します。1歳5ヶ月の時に、囲炉裏に落ち左手に大やけどを負いました。母は隣村の医者に見せ、命は助かりましたが左手は指が全て手のひらにくっ付いてしまったのです。

このことで、「清ボッコ」や「てんぼう(手の棒)」とからかわれ辛い体験をしています。母はこの手で畑仕事は無理だ、学問で身をたてられるよう育てようと決意し、イジメられる清作に勉強で見返せと言い聞かせました。

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ちょっと雑学

父は戊辰戦争時代に官軍側の逓送人(郵便の飛脚)をしており、この頃の悲惨な体験のトラウマで大酒のみになったとか。でも、長男の清作や姉や弟はもちろん、近所の子供たちからは、「魚釣り名人」として人気がありました。貧乏には反発するも、父を自慢に思っており憎悪の感情はなかったようです。

1-2学校でトップの秀才

母は清作を育てるために、畑仕事だけでは不十分と、産婆の資格を取り学費を貯めていました。後に英世が偉くなり勲章を貰うも「自分にはどんな物かは分からない、我が子が元気であればそれで十分。」と、人に自慢することはなかったとか。

清作は、母譲りの負けん気根性で、強靱な肉体と集中力を養い勉強し成績は常にトップ。英語が得意だったようですが、体育の不具の他「修身」は最悪だったとか。これは、アインシュタインやスティーブ・ジョブズなどにも相通じる物があります。当時の尋常小学校は4年教育で、母一人の稼ぎでは高等小学校や中学に通わせることは皆無でした。

たまたま、試験の監督に来ていた猪苗代高等小学校の教頭小林栄に、優秀な人物と認められ援助を受けて入学します。今までの寺子屋とは全く違い、ガラス窓で明るく椅子や机のある立派な教室に驚いたようです。

1-3医者となる決意をする

5歳で物心がついてから、誰にも見られないように左手を隠して過ごしていました。障害で他人と同じくできないことが腹立たしく、「できることなら小刀で指を切り離したい。」とまで思っていたのです。しかし、15歳の時に転機が訪れます。

自身のことを作文にするという課題がでたのです。もちろん、清作は左手のために辛い思いをしたことを書きました。そして、「一度でいいから、左手を動かしてみたい。」と訴えたのです。

多くの先生や生徒の心を打ち、「そんなに苦しんでいたのか。」と皆が親身になって考えてくれました。「会津若松にアメリカで学んだ渡部鼎(わたなべかなえ)という外科医がいる。」と、手術の費用をみんなで工面してくれたのです。そうして、物が握れるほど回復します。医師の素晴らしさに感動した清作は、医者になろうと決意したのです。

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ちょっと雑学

医師を目指すことで、将来の展望が見えた野口英世は、後に名言を残しています。

「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。」

辛い経験から自分の強さで脱出した彼の強さを感じられますね。

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