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5分でわかる「野口英世」日本が世界に誇る細菌学者の生涯・功績をわかりやすく解説

2.英世医者になる

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高等小学校を優秀な成績で卒業した清作は、医師を目指すため勉学に励みます。またまた、清作の才能に惚れ込んだ血脇守之助(ちわきもりのすけ:戦後東京歯科大の学長となる)の援助で、夢に向かって歩みはじめたのです。誰もが見捨てるほどの迷惑をかけるも、惜しまず援助をしてくれた余人をもって替えがたい恩人となります。それでは、医師を目指した清作をご紹介しましょう。

2-1医師への第一歩

手術を受けた会陽医院に住み込み、医学書生として3年間を過ごします。ここでは、医学以外にも、ドイツ語やフランス語、元々得意な英語も熱心に勉強しました。いつも、片手に専門書をもっており、時間があれば読書をしていたようです。

明治29(1896)年の19歳の時、高等小学校の小林先生や友人等から40円(現在の約60万円ほど)を借り、医師になるための医術開業試験受験のため上京しました。上京直前に自宅の床柱に「志を得ざれば再び此地を踏まず」と強い決意を刻んでいます。

2-2血脇の惚れ込みようは半端なかった

真面目な人物のはずが、東京で180度変わります。幼い頃からの貧乏生活の反動だったのでしょう。酒に溺れ遊郭に通い、せっかく郷の人たちが貸してくれたお金を使い果たしてしまいます。ある意味病で、お金を手にすると全て遊びで使ってしまうのです。しかも、下宿代が払えず2ヶ月で追い出されてしまいます。彼を救ったのは、血脇先生でした。

合格するには10年はかかるとされる超難関の試験を、たった1年でクリアしたのです。高等小学校を卒業する頃の出会った血脇守之助から、上京したらわしを頼ってくれといわれた通り庇護を受けます。試験には打診があり、当時の左手では敵いません。でも、血脇の援助で再手術を受け打診が可能になったのです。他にも、自分の給与だけでは清作の夜学の費用を用意できないと、院長に給与の増額を頼み通わせました。もう、神ですよね!

試験に一発合格するほどの秀才でも、大学をでていない清作を雇うところはありません。血脇は清作に、順天堂医院を紹介します。血脇との出会がなければ、医師になれなかったかも…。

2-3細菌学者野口英世の誕生

翌年4月に、当時衆目を集めていた細菌学に着目します。北里柴三郎が所長をしていた伝染病研究所の助手となりました。里に帰り開業医になろうにも、資金問題や左手へのコンプレックスより、医師になるのは無理と医学者への道を選んだといわれています。現在の千円札の肖像は「野口英世」ですが、2024年からの新千円札にはこの「北里柴三郎」に変わる予定です。

そんな時、1885年に発表した坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の、『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』という小説に出会います。そこには、都会にでてきた医学生が堕落し最後には自殺する姿が描かれていたのです。しかも、彼の名前は「野々口精作」。正に自分を見ているように感じたのです。そして、恩師小林に相談すると、世に優れるという意味の「英世」という名を提案されました。こうして、22歳の時に野口英世が誕生したのです。

3.世界へ羽ばたく英世

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細菌学者の道へ進むことを決心した英世は、いつも世界に目が向いていたのです。でも、ダメ男の英世はまたもや問題を起こしてしまいますが、医学者として立派な功績を残しました。それでは、世界をまたにかけ活躍した、英世をご紹介しましょう。

3-1研究所の仕事は不満だった

伝染病研究所で大卒でない英世には、研究員としての仕事は与えられません。語学の才能は買われており、外国人客の通訳や翻訳の仕事ばかりだったのです。仕事は不満でしたが、世界へ羽ばたくきっかけを作る人物と出会います。研究所にアメリカ医師団がやって来たのです。その中の一人、ペンシルベニア大学医学部サイモン・フレクスナー博士が、英語力を認め東京案内役に抜擢します。別れ際には、渡米することがあれば、訪ねてくるように言い残しました。

その後英世は、横浜港検疫所検疫補として働き、ペスト患者を発見します。この活躍から国際防疫班に選ばれ清国へ。船の中で日常会話が熟せるほどの中国語を身に付け、ペストに苦しむ人々を救いました。かなりの天才!「学者として名をあげたい」が、日本では出世の見込みはないと渡米を決意します。でも、渡米費用は300円も必要でした。

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