日本の歴史明治昭和

5分でわかる「野口英世」日本が世界に誇る細菌学者の生涯・功績をわかりやすく解説

3-2本物のダメ男!英世

知人から200万の援助を受け、斉藤文雄の姪で医学生の斉藤ます子との婚約持参金300円を入手するのです。無我夢中で留学費用をかき集めるも、病気がでちゃいます。婚約持参金を含め、送別会で調子に乗り遊びに全て使ってしまうのです。ます子とは、帰国後の結婚という条件付きでしたが…。

もちろん、泣きつく先は血脇先生でした。流石の先生もぼ~ぜん。でも、借金をしてまで、留学費用を工面してくれたのです。ここまで来れば最低男ですよね!しかも、婚約破棄が成立し、1905年に婚約持参金も血脇先生が肩代わりします。当の英世本人は、1900年12月に横浜港から渡米したままなんですもの…。マジで、結婚詐欺!

3-4アメリカでの英世

北里の紹介状をもって、フレキスナー博士を頼る無謀な渡米でした。いきなり来られて博士は困惑するも、ペンシルベニア大学医学部に入れ月8ドルの報酬で、毒蛇研究の臨時助手として雇います。英世はミッチェル博士の指導を受けながら、健全な右手を上手に使い、多くの蛇の毒を集めました。更に、実験を重ねた結果から正確な結論を導き出しています。

睡眠時間は3時間ほどで、あまりの熱心さに周囲は驚いたとか。実力社会のアメリカ。できなければ切られます。東洋人という人種差別も受ける劣悪な環境。このような待遇の中でも、英世はアメリカの新聞に取り上げられるほどの成果をあげたのです。

その後は、カーネギー学院研究助手となりデンマークへ留学し、国立血清研究所のマッセン博士の元血清学を学びながら、いくつもの論文を発表します。アメリカに戻り、フレキスナー教授がロックフェラー医学研究所の所長になったとき誘われました。フランスのパスツール研究所やドイツのコッホ研究所に負けじと、ロックフェラー一族がアメリカの威信をかけて1901年に作った研究所です。

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ちょっと雑学

野口英世は、いつも誰かに援助してもらい、いつも危機を脱します。彼の知人はその姿を見て、「彼は空気のような存在で、隙間があるとみて当たり前のように入り込み馴染んでいる。チャンスには敏感で、物にする力も備えている。」と、語っています。

3-5出世する英世

さまざまな研究で成果をあげ、どんどん出世をします。30歳の時には、毒蛇医学博士の名誉学士を授けられました。次に、感染すると脳を犯される怖い病気「梅毒」の研究にとりかかります。特に、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、その名を世界に広めました。

明治44(1912)年35歳で、アメリカ人女性メリー・ダージスと結婚をします。誰にも伝えない結婚でしたが、英世は幸せでした。仕事でも、精神病と梅毒の関係性を証明し、世界のA級クラスの医学者の仲間入りをしたのです。

4.黄熱病と死闘を繰り広げる

野口英世は、ロックフェラー財団が掲げる黄熱病撲滅計画に参加します。世界各国の医学者たちも、躍起になって黄熱病菌と戦ったのです。南米では「人類の救世主」とまでいわれた「野口ワクチン」は、アフリカでは効果がなく英世自身も命を落とします。

4-1黄熱病との戦い

1914年37歳で、東京大学理学博士の学位を授与されます。そして、ロックフェラー医学研究所の正員に昇進し、同年のノーベル医学賞の候補にまでなったのです。母が一生懸命書いた手紙に感動し、15年ぶりの1915年に2ヶ月の凱旋帰国をします。これが、英世最期の日本となるのです。

アメリカに戻った英世は、南米で発生した伝染病の黄熱病に直面します。黄熱病は高熱を発し、黄疸が見られ黒い血を吐いて死ぬ怖い病気です。英世はメキシコへ派遣され、菌を発見し予防のためのワクチンを完成します。これは「野口ワクチン」と呼ばれ、エクアドルの軍隊に送られました。そして、エクアドル軍の名誉大佐に任命されたのです。

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