イギリスヨーロッパの歴史

5分でわかる「ピューリタン(清教徒)」そのルーツをわかりやすく解説

ピューリタン(清教徒)。16世記ヨーロッパを席巻した宗教改革で生まれたプロテスタントの一派です。ピューリタン革命、アメリカ移民などぼんやりしたイメージで覚えているけど、どんな教え?カルヴァン派やユグノーとは違うの?政治を動かし革命と戦争まで起こした英国のピューリタン。前半はピューリタンの教義について、後半はイギリス全土を巻きこんだ内乱ピューリタン革命を解説しましょう。

#1 ピューリタンはどこから来た?

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16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ全土を吹き荒れた宗教改革の嵐。ローマ・カトリックの一強だった世界でプロテスタント(「対抗」の意)が次々と生まれます。神父など聖職者の権威が強かったカトリックの教え。プロテスタントはそこから聖書主義に移行していったのです。その中で大きな鍵を握るカルヴァン派がピューリタンに大きく関係しています。

1-1.宗教改革で生まれたカルヴァン派

宗教改革といえばマルティン・ルター。彼が巻き起こした宗教改革で、多くのプロテスタント教派が生まれました。そんなプロテスタントの一大教派であるカルヴァン派(カルバン派、カルビン派、カルヴァン主義)。厳格な教えが特徴です。

カルヴァン派を説明するのに欠かせないのが「予定説(二重予定説)」。カルヴァン派を作った聖職者ジャン・カルヴァンによれば、1番最初に天国に行く人と地獄に落ちる者は決まっており、生きている間に善行をした人が救われるとは限らないというのです。それまでのカトリックの教えと人間の聖職者の権威を真っ向から否定するこの神学思想は画期的でした。宗教改革以降、このカルヴァン派が大きな流れを作っていったのです。

ところでカルヴァンの名前を名乗っているキリスト教の正統教派はありません。カルヴァン主義を奉じるキリスト教徒はフランスではユグノーと呼ばれています。そしてイギリスでピューリタンと言われるようになりました。日本語に訳されるとき「清教徒(せいきょうと)」という言葉を当てられることに。

1-2.ピューリタンの誕生

フランスで弾圧されたユグノーがブリテン島(以下イギリス)に亡命しはじめたのが、16世紀から17世紀。カトリック教会の勢力が強かったフランスではユグノー教徒は激しく弾圧され、火あぶりになるしかない状況だったのです。有名なユグノー戦争、サン・バルテルミの虐殺などで国内のユグノーは追いつめられ、ドーバー海峡を渡ったのでした。

国を逃れたユグノーは亡命先のイギリスで自分たちの教えを広めます。ローマ教皇(法王)の干渉を嫌って、いち早くカトリックから離脱し英国国教会を作っていたイギリス。新しい教義と理念を持つユグノー(カルヴァン主義)の教えにイギリスの人々は刺激を受けました。

カルヴァン派の考えを取り入れて今の英国国教会をよくしよう!という長老派、英国国教会から離れて新しい秩序を作ろうとする分離派、両者の中間にいる独立派の3派に分かれます。他のヨーロッパ諸国と同じく、イギリスも大揉めにモメることとなるのです。

1-3.教会の改革へ、国の革命へ、アメリカへ

分離派はその後、迫害と弾圧を逃れて西へ向かいます。アメリカに渡ったのです。1620年、メイフラワー号に乗って大西洋を横断した彼らがアメリカ建国の祖というべき人々でした。アメリカ大陸東部ボストン近くにニューイングランドと呼ぶ集落を作り、厳格な生活を送ります。この様子はアメリカ文学の傑作、ホーソーン「緋文字」に詳しく書かれていますよ。

さてピューリタンはカルヴァン派の教えをくんだイギリスの人々。実はカルヴァン派は資本主義を推し進めたと言われています。予定説のせいで彼らは自分が天国行きか地獄落ちかわかりません。死んだ後どうなるの?その答えを得るために人々は「働くこと」選択しました。神に祝福された人は良い仕事をするはずだ!という考えのもとでプロテスタントの人々は労働と商業を推し進めたのです。

それまでの世界観では労働やお金は卑しいこと。社会の仕組みを全部ひっくり返しかねない思想だったのです。そこに神や信仰が絡んでいるのですからさらに大変でした。ピューリタンは革新的な考えとして浸透していき、大きな摩擦を生んでしまうことになるのです。

#2 清教徒革命(ピューリタン革命)ってどんなもの?

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現在もイギリスは立憲君主国として国王を戴いています。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドが現在の「イギリス」を構成する地域。その全土を巻きこむ形で、王政を排除した内戦がありました。ピューリタン革命です。後半は共和制の夢を追ったピューリタン革命を辿りましょう。

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