室町時代日本の歴史

前代未聞の将軍暗殺劇「嘉吉の乱」!重臣・赤松満祐はなぜ乱を起こした?わかりやすく解説!

「嘉吉の乱(かきつのらん)」は、現役の将軍が重臣によって暗殺されるという、前代未聞の大事件でした。殺害された将軍・足利義教(あしかがよしのり)の理不尽にして苛烈な処罰は、将軍と幕府を守る守護大名を相手にしても少しも鈍ることはありませんでした。それに危機感を抱いたのが、幕府の重鎮・赤松満祐(あかまつみつすけ)。彼はどうして将軍暗殺を決断するに至ったのでしょうか。わかりやすく解説していきたいと思います。

「万人恐怖」の将軍・足利義教の登場

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守護大名・赤松満祐は、前将軍・足利義持(あしかがよしもち)との間にぎくしゃくしたものを抱えていましたが、次の将軍・足利義教とは、当初は良好な関係を築いていました。しかし、将軍と幕府の権威を復活させようとする義教は、次第に冷酷な処罰を誰にでも理由なく課すようになり、「万人恐怖」と呼ばれる存在となっていきます。そして、満祐と義教の間にもやがて亀裂が生じていくのでした。嘉吉の乱に至るまでの時代背景をご説明しましょう。

嘉吉の乱を起こした赤松氏とは?

嘉吉の乱は、嘉吉元(1441)年、守護大名・赤松満祐によって室町幕府第6代将軍・足利義教が暗殺され、その後満祐が幕府軍に討伐されるまでの事件です。

本来、守護とは領地の治安維持を主に行う役割で、領国の武士とは主従関係を持ってはいませんでした。しかし室町時代になると、守護が領国の武士団を傘下に置き、実質上その国を統べるようになり、守護大名となっていったのです。

赤松氏は、鎌倉時代末期に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に協力して鎌倉幕府打倒に貢献し、播磨(はりま/兵庫県南西部)・備前(びぜん/岡山県東南部)・美作(みまさか/岡山県東北部)の守護となりました。しかし、その後足利尊氏(あしかがたかうじ)に与し、室町幕府の創設に大きな功績を挙げ、幕府における上位の家格となる「四職(ししき)」となり、守護大名となっていったのです。いわば幕府創設の元勲でもあり、重臣中の重臣でした。

赤松満祐は嘉吉の乱以前にも幕府に反抗しようとした!?

応永34(1427)年、父の死によって、満祐は家督を継ぎました。

当時の室町幕府は、5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が若くして亡くなり、やむなくその父で前将軍である足利義持が政務に復帰していました。ところが、その義持が突然、満祐から播磨を取り上げ、自分のお気に入りであり満祐の又従兄弟である赤松持貞(あかまつもちさだ)に与えようとしたのです。

主君のやることとはいえ、実に理不尽な仕打ちに、満祐は怒りました。そして、京都の自分の屋敷に火を放ち、領国に戻って戦闘準備を始めたのです。義持の方でも満祐討伐の兵を組織しようとしましたが、重臣たちは、重臣中の重臣である満祐を討伐することには積極的ではなく、なかなか進みませんでした。

そうこうしている間に、赤松持貞が、義持の側室と密通していたことが判明。持貞はすぐに切腹させられ、結局、満祐は反逆罪に問われることはありませんでした。とはいえ、幕府に対する不信は募っていったと思われます。

専制君主・足利義教と赤松満祐の関係は良好だった

応永35(1428)年、足利義持は次の将軍を決めないままに亡くなりました。そのため、重臣たちの合議により、義持の弟4人の中からくじ引きで後継者を選ぶことになり、当時は僧侶で義円(ぎえん)と名乗っていた足利義教が6代将軍に就任します。

義教は幕府と将軍の権威を復活させようと考えていたため、当初は重臣たちの合議制を重んじていましたが、やがて将軍親政へと転じていったのです。多くの有力守護大名の家督問題にも介入し、自身に都合のいい者を後継者に据えるなどして、自分の権力強化を図りました。対立勢力には容赦せず、次々と屈服させていったのです。

そんな義教と満祐は、良好な関係を保っていました。義教からの信頼はあつく、満祐の地位は盤石であるかのように見えていたのです。

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