「万人恐怖」の義教と満祐の関係に暗雲が…
一見、精力的に見える義教の活動でしたが、親政はやがて恐怖政治へと変わっていきました。義教は、元僧侶であったとは思えないほど、非常に猜疑心が強く、疑いをかけたものを次々と処罰したのです。それも理不尽きわまりない容疑で、儀式の最中に微笑んだ者に対し、「将軍を笑った」として領地を没収したり、酌が下手だとして侍女を尼にしてしまったりなど、ひどいとしか言いようのない処罰を繰り返しました。屈服させられた比叡山延暦寺の僧が、寺に火を放って自殺してしまったこともあったのです。
このように、冷酷非道の限りを尽くす義教を、人々は「万人恐怖」と呼んで恐れました。彼の怒りに触れまいと沈黙するか、おべっかを使って取り入るかしかないような状況となってしまったのです。そして、やがて義教と満祐の関係にもほころびが生じていくのでした。
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将軍暗殺!嘉吉の乱の勃発
猜疑心の強すぎる義教は、領地をめぐって満祐の神経を逆なでするような行動に出ます。やがて、義教の次の標的は満祐ではないかという雰囲気が漂い始める中、満祐は一族総出で義教の暗殺をはかりました。ついに、嘉吉の乱が勃発することになるのです。
理不尽な将軍のやり方に不満を抱いた満祐
恐怖政治へと突っ走る義教は、やがて重鎮である満祐でさえも疎んじるようになっていきました。
そして、満祐の所領が没収されるのではないかという噂が囁かれるようになり、その直後、満祐の家臣が3人もいわれなき理由で誅殺されたのです。
また、義教は赤松家の庶流の出身である赤松貞村(あかまつさだむら)を寵愛し、満祐の弟・義雅(よしまさ)の領地を取り上げ、貞村に与えてしまいました。以前の義持のようなことを、義教は実際にやってしまったのです。これには満祐も我慢ならず、病気を理由に出仕しなくなりました。
この間にも、同じ有力守護大名の一色義貫(いっしきよしつら)や土岐持頼(ときもちより)らが誅殺され、義教に反乱を起こした鎌倉公方・足利持氏の遺児たちが討伐され、斬首となり、九州に逃げていた義教の弟のひとりも討伐されるなど、義教の強硬な態度はエスカレートしていきます。さすがに、家臣の中にも出奔する者が出始めていきました。
義教の次のターゲットは満祐ではないか…誰もがそう思い始めたころ、満祐は一族を交え、ついに行動に移ることとしたのです。
満祐、将軍を暗殺する
嘉吉元(1441)年6月24日、満祐の息子・教康(のりやす)は、合戦の戦勝祝いと、「鴨の子がたくさん生まれたのでぜひお目にかけたい」として、義教を自分の屋敷に招きました。
義教はお気に入りの側近たちを連れて赤松邸を訪れ、みんなで能楽を観賞し始めます。すると突然、庭に馬が放たれ、屋敷の奥の方では大きな物音がしました。
義教は「何事か!?」と叫びますが、側近の公家は「雷鳴でしょう」と呑気な答え。ちょうどその時雨は降っていたのですが…。
義教が腰を下ろしかけると、その刹那、障子がさっと開くなり、武装した武者が乱入してきました。そして、その中のひとりの刃が義教の命を奪ったのです。嘉吉の乱の勃発でした。
義教を守ろうとしなかった多くの側近たち
満祐の放った刺客たちは、一瞬にして義教一行を血祭りにあげました。義教のお供をしてきた者たちは、中には勇敢に戦った者もいたものの、多くは逃げ出し、義教を守ろうとすらしなかったのです。幕府のナンバー2である管領(かんれい)すら、泡を食って逃げ出したほどでした。
義教を討ち果たした満祐は、その場で死ぬことも覚悟していました。ところが、幕府の内部は義教の死によって舵取りを失い、方針すら定まらないままあたふたするのみ。そのため、満祐や教康らは、義教の首を手に、追っ手もないまま領国に帰還したのでした。
赤松一族の討伐と乱の終結
義教の死に動揺したのは、義教の顔色ばかりをうかがっていた幕府の重臣たちでした。暗殺から1ヶ月も経ってからようやく討伐軍が派遣され、満祐以下赤松一族は奮戦しましたが、やがて追い詰められ、満祐は自刃します。嘉吉の乱は終焉を迎えますが、その後の世の中はどうなっていくのでしょうか。