トラヤヌス即位以前のローマ帝国
古代ローマは、共和制ローマと帝政ローマに分けられます。このうち、ユリウス・カエサルの死後、アウグストゥスが内戦に終止符を打って始めたのが帝政ローマでした。帝政ローマの前半は元首制とよばれます。アウグストゥスが作り上げた政治のシステムでした。アウグストゥスから始まるユリウス・クラウディウス朝の終焉後、ウェスパシアヌスがフラヴィウス朝を起こします。フラヴィウス朝の最後の皇帝となったドミティアヌスは元老院により記録を抹消されてしまいました。
こちらの記事もおすすめ
5分でわかる「ローマ帝国」の流れ!400年近く続いた歴史を元予備校講師がわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
アウグストゥスにはじまる元首政
紀元前31年、オクタウィアヌスはアクティウム海戦でアントニウスとエジプト女王クレオパトラの連合軍を打ち破りました。権力を握ったオクタウィアヌスは共和政ローマを立て直し、元老院を抑えます。
紀元前27年、元老院はオクタウィアヌスにアウグストゥスの尊称を捧げました。以後、オクタウィアヌスはアウグストゥスと呼ばれるようになります。アウグストゥスは、自ら市民の第一人者「プリンケプス」と名乗りました。
アウグストゥスによる政治は、プリンケプスによる統治(元首政)と称されます。形の上では、共和政の仕組みや執政官制度、元老院を残しました。しかし、軍の指揮権や重要属州の総督任命権は元首(皇帝)が持ちます。こうして、アウグストゥスは合法的に「皇帝」の地位を確立しました。
ユリウス・クラウディウス朝の終焉とフラヴィウス朝の始まり
初代皇帝アウグストゥスに始まる皇帝たちの時代をユリウス・クラウディウス朝といいます。ユリウス・クラウディウス朝の皇帝は、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの5人ですね。
西暦54年に即位したネロは古来、暴君として語り継がれました。ネロの治世の末期に起きたローマ大火は、自分の思い通りにローマを改造したかったネロが放火したという噂まで飛び出します。ネロはキリスト教徒が犯人だとして弾圧しました。この弾圧により、ネロの名は暴君として定着したのかもしれません。
ネロの死後、4人の人物が皇帝の座をめぐって争います。勝利したのはウェスパシアヌスでした。ウェスパシアヌスに始まる3人の皇帝たちの時代をフラヴィウス朝といいます。
記録抹殺刑に処せられたドミティアヌス
ウェスパシアヌスの死後、皇帝の位は長男のティトゥスに引き継がれます。しかし、ティトゥスが病に倒れ、帝位はティトゥスの弟であるドミティアヌのものとなりました。
『ローマ皇帝伝』の著者であるスエトニウスは、ドミティアヌスを教養ある好青年として描きます。実際、彼の治世は穏やかに始まり、多くの人々や元老院はよき統治を期待しました。
しかし、皇帝の位についたドミティアヌスは次第に元老院と対立。治世の後半には彼らをたびたび告発して死刑に処しました。また、ユダヤ教徒やキリスト教徒を弾圧したため、後世の歴史家からの評価もすこぶる悪いです。
西暦96年、ドミティアヌスは元老院議員や元側近たちの手により暗殺されます。そればかりか、彼に関する記録を抹消する記録抹殺刑に処せられました。それゆえ、ドミティアヌスの功績は不明な点が多いといえますね。
トラヤヌスの生涯
ドミティアヌスが暗殺されると、元老院は自分たちの同僚であるネルウァを皇帝に指名しました。ネルウァは万事元老院と協議しながら慎重な政治を行います。ネルウァが養子とし、次の皇帝として指名したのが属州出身のトラヤヌスでした。トラヤヌスは優れた軍人だったのでダキア戦争やパルティア戦争に勝利。同時に、国内のインフラ整備も行うなど、ローマ人にとって理想の皇帝として帝国を統治します。
属州に生まれたトラヤヌス
トラヤヌスは西暦53年に、現在のスペイン南部アンダルシア地方にあたるヒスパニア・パエティカ属州で生を受けました。属州生まれといっても、トラヤヌスの家はイタリア半島から移住してきたローマ市民です。したがって、属州出身といっても属州民の出身ではありません。
属州出身のローマ市民にとって、軍人となって功績をたてるのが出世の早道でした。トラヤヌスも若いころから軍務に従事。父親がシリアの属州総督となるとトラヤヌスは幕僚として父を補佐しました。
その後、財務官、法務官を経て軍団長に就任。ドミティアヌス時代に起きたゲルマニア属州総督の反乱を鎮圧するなど、政治家・軍人として功績を挙げます。西暦91年には執政官の地位まで上り詰めました。