足並みのそろわない幕府方
専制君主だった義教の思わぬ死により、幕府は混乱状態に陥りました。満祐討伐の軍を組織することになっても、その内部で大名それぞれの兵たちによるトラブルが起きるなど、いっこうに出立できません。結局、討伐軍すべてが京都を出発したのは、義教が暗殺されてから1ヶ月も経ってからでした。それでも、義教の生前の行いを知っていた公家などからは、満祐に同情的な意見もあるなど、幕府側の足並みはそろっているとは言い難い状態だったのです。
その間、満祐は領国で戦闘準備を固め、足利尊氏の曾孫とされる庶流の足利義尊(あしかがよしたか)を探し出して擁立するなど、幕府へ対抗する姿勢を見せました。
追い詰められた赤松一族の終焉
ようやくそろった幕府方は、ついに赤松方へと攻撃を始めました。教康や満祐の弟・義雅は奮戦しましたが、三方から迫り来る幕府軍の前に敗走し、おりからの大雨による川の増水などで主力の大半が流される不運もあり、たちまち本拠地・播磨坂本城(兵庫県姫路市)に追いつめられてしまいました。
しかし、坂本城も安全ではありません。赤松氏を滅ぼして領土拡大を狙う幕府方・山名持豊(やまなもちとよ/後の山名宗全/やまなそうぜん)の軍勢は攻撃の手を緩めず、ついいに満祐らは坂本城も放棄し、城山城(きのやまじょう/兵庫県たつの市)へと移りました。
とはいえ、すでに城の周りには山名勢の大軍がひしめいている状況。戦意を失った義雅がまず逃亡し降伏すると、赤松方の軍勢は雪崩を打って逃げ出してしまいました。
そして幕府方の総攻撃が始まると、満祐は教康らを逃がし、切腹して果てたのです。これで、前代未聞の将軍暗殺劇から始まった嘉吉の乱が終結したのでした。
守護大名の力が強まる
嘉吉の乱の後、赤松氏を滅ぼした山名氏はそのまま領地を与えられ、一気に守護大名としての力を拡大していきます。そして、管領をつとめる細川氏とも争う勢力に成長し、やがて応仁の乱(おうにんのらん)へと突入していくのです。
一方、赤松一族はというと、満祐に逃がされた息子・教康は義父を頼りましたが、拒否され、結局自害して果てました。逃亡し降伏した弟・義雅は切腹したものの、子供を密かに預けており、その子は追っ手から逃れて成長し、守護大名・赤松政則(あかまつまさのり)として見事に復活を果たすこととなります。
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再び戦乱の世が訪れる予感
元僧侶という肩書がかすんで見えるほどの横暴さを見せた足利義教。彼は3代将軍・足利義満の子ですから、考えてみれば、室町幕府は義満の次の代ですでに衰えの兆しが見え始めたということになりますね。彼が生き永らえたとしても、満祐のような人物は再び現れたことでしょう。太平の世はまだほど遠く、戦国時代の到来が予感された、嘉吉の乱でした。