ペリーの来航とそれによる幕府の混乱
1853年。この年日本の歴史を大きく揺るがすペリー来航が起こりました。
ペリー来航に驚いた幕府は急いで開国。これによって安い外国製の製品が日本に流入することになり、日本の国内は不安定となっていきました。
そんな過程の中で日本では下級武士を中心に尊王攘夷を唱えていくようになっていき、外国人を追い払おうとする動きを見せていくようになります。幕府はこれをなんとかして止めるために井伊直弼は1858年から1859年にかけてこれを弾圧。
いわゆる安政の大獄が起こったのですがこれに反動を受けた水戸藩の藩士によって桜田門外で暗殺。幕府の実質的なトップである大老が暗殺されたことは幕府の権威は失墜することになります。
幕府が失墜したことで政治のコントロールができなくなったことで日本(特に京都)は大混乱。新撰組などがこれを対応していましたが、特に長州藩の動きが過激であり幕府と長州藩の緊張は高まっていくばかりでした。
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長州征伐の失敗による幕府の揺らぎ
過激な尊王攘夷の武士を検挙する幕府。過激な尊王攘夷論が主流となり京都にて大暴れしていた長州藩。この二つの勢力は1864年に禁門の変が起こるとついに本格的になっていくことになっていきました。
禁門の変によって長州藩は朝廷から朝敵というレッテルを貼られることになり幕府は第一次長州征伐が勃発。この戦争によって長州藩は尊王攘夷の武士を排除していき逆に失脚していた佐幕派が長州藩を動かしていくようになります。
こうして幕府と長州藩の争いは終わったかに思われましたが、この翌年の1865年に功山寺挙兵によって逆クーデターを起こして同じ様子となりました。
これを幕府は潰そうとするのですが、今度の第二次長州征伐では幕府軍は長州藩の近代化された軍備に全く歯が立たず敗北を重ねて失敗に終わることになります。
この第二次長州征伐の失敗によって幕府の権威は完全に失墜。これまで幕府に協力していた薩摩藩も第二次長州征伐の少し前に結んでいた薩長同盟から討幕の動きを見せていくようになり、天皇を基軸とした新政権の樹立へと方針を転換するようになったのです。
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