幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

新政府軍と旧幕府軍の決戦「鳥羽・伏見の戦い」をわかりやすく解説

討幕の密勅と大政奉還

第二次長州征伐で失墜した幕府はこれ以上政治を行うことができることはないと判断した岩倉具視らの働きかけによってついに朝廷は幕府と会津藩に対して討幕の密勅を下すことに成功。これを基にして幕府を完全に潰していこうとしていくことになります。

この動きに対して幕府側であった元土佐藩主の山内容堂は討幕される前に政権を朝廷に返して朝廷の政権の下で徳川家の勢力を残していこうとする公議政体論を構想していました。

慶喜もいきなり朝廷に政権を返したところで外交能力や政治能力もろくにない朝廷が政治を行うことはできないと考えていたため慶喜はこれを合意。1868年に大政奉還を二条城で行い幕府は消滅。265年続いた江戸幕府は終焉を迎えることになったのです。

しかし、この大政奉還で一番揚げ足を取られたのが岩倉具視や長州藩。この大政奉還を行ったことによって討幕の密勅の効果は宙ぶらりんとなってしまい、意味をなさなくなってしまったのです。考えに考えた岩倉具視は大政奉還するのであればこれから幕府の勢力を完全に排除して朝廷による政治体制に生まれ変わるとして王政復古の大号令を発令。

さらにはこうすることによって岩倉具視は徳川家を完全に潰すために色んな策を講じていくようになるのでした。

小御所会議

王政復古の大号令が出された12月9日。この日天皇の御所にある小御所で総裁、議定、参与による小御所会議が開かれました。この小御所会議では徳川慶喜の処分を決めるもの。

薩摩の大久保利通や西郷隆盛。公家の岩倉具視などが慶喜を追い詰めようとし、慶喜に対して「内大臣とすべての領地を朝廷に返せ」(辞官納地)と要求。慶喜はこれを見てこれによって徳川慶喜は新政府との対決を見ていくようになります。一応新政府は譲歩の構えも見せていくべしという声が上がるのですが、もう時すでに遅し。旧幕府軍の軍勢は大坂城に入城したのでした。

薩摩藩邸焼き討ち

慶喜は新政府に対抗するために日本に駐留していた外国6国代表と謁見し、外交権はこれから先も慶喜が引き続き行うことを宣言しました。新政府はこれを大困りして財政もなかなか出せないという状態となってしまいます。

また、親藩である越前藩や尾張藩などが慶喜を締め付けるのではなく、新政府の一員とする方が都合がいいとして慶喜を新政府の一員にすることが決定。慶喜は非武装にして新政府に降るのであれば許すと一気に軟化することになりました。

でも、これでは薩摩藩や長州藩は何のために倒幕運動を行ったことはわかりません。大久保利通や西郷隆盛などは徳川家を完全に滅ぼさなければ真の意味での王政復古は実現しないと考えました。

そこで西郷隆盛は慶喜を戦争に引き摺り込ませるためにある策を打ちます。それが旧幕府軍の軍勢を江戸の薩摩藩邸を攻撃するように仕向けることでした。
薩摩藩士は江戸の町にて乱暴狼藉を行い挑発活動をさせ会津藩と庄内藩がこの乱暴狼藉を止めるために薩摩藩邸を焼き討ちにします。

これによって江戸では薩摩藩と旧幕府軍との戦争状態に突入。慶喜側はまんまと薩摩藩の策略に乗せられてしまったのです。

まさに万事休すの慶喜。ここまできたら仕方ないと覚悟を決め薩摩藩と長州藩に戦争を挑むことになるのでした。

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