鳥羽伏見の戦いの経過
大坂を出発した旧幕府軍1万5000人は鳥羽街道を進軍し、大坂と京都の中間地点である淀に着陣。そして鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と接触することになります。
街道を進もうとす旧幕府軍に対し、薩摩藩側は朝廷がいる京都に問い合わせるとして進軍を止めるように指示。両軍は小枝橋付近で両軍は対峙することになりました。
しかしこれも薩摩藩の策略。薩摩藩は小枝橋で止まっている旧幕府軍と駆け引きを行いその間に陣地を整えていたのです。そして薩摩藩は急に大砲を発砲。ここに鳥羽伏見の戦いが始まったのでした。
まさしく不意打ちという形で始まったこの戦争は旧幕府軍を大混乱に招くことに成功し、京都見廻組などが奮戦努力するのですが、薩摩藩が使っている武器は旧幕府軍の武器と比べると遥かに優れており旧幕府軍が勝てるはずもありません。努力も虚しく旧幕府軍は鳥羽方面に撤退することになりました。
伏見奉行所の戦い
淀で戦争が起こったのと同時期。水運のかなめという重要拠点であった伏見でも戦が巻き起こりました。旧幕府軍は京都の水運を管理している伏見奉行所へ入り、ここで陣を構えて薩摩藩に立ち向かおうとします。
しかし、旧幕府軍は薩摩藩邸と同じでめちゃくちゃ喧嘩っ早く薩摩藩が街道を通さないという動きを見せた瞬間に会津藩や新撰組は戦を起こすべきだといきなり出陣。持久戦になるかと思いきやいきなりの激戦になってしまったのです。
この激戦は朝から夜まで続きましたが、午後8時ごろに薩摩藩が放った大砲が伏見奉行所の火薬庫に命中したことで大炎上。旧幕府軍はたまらず伏見奉行所を放棄して撤退することになりました。
淀の戦いと錦の御旗
淀方面では下鳥羽まで撤退。伏見では奉行所を新政府軍に占領されることにより一気に劣勢に追い込まれてしまった旧幕府軍。
しかし、薩摩藩の3倍もある兵力を基に何とか踏んばって耐えることになります。薩摩藩側はこの頃長州藩や土佐藩の軍隊が参戦したことによって旧幕府軍は劣勢に。
指揮官が討死したり高性能武器で攻撃を受けた旧幕府軍はどんどんジリ貧となっていき、やがてどんどん大坂方面に撤退。また、これまで黙秘を決め込んでいた朝廷サイドも岩倉具視の働きかけによって徳川家の討伐を行うことで決議。
決まってすぐに朝廷から徳川家を征伐する征討将軍が派遣され仁和寺宮嘉彰親王が総司令官となり鳥羽方面に進軍することになります。さらに、岩倉具視はこれを超える策を作ることに。仁和寺宮嘉彰親王が進軍したときに岩倉具視は京都の有名な呉服屋に頼み込み錦の御旗をひるがえさせます。
錦の御旗は1221年の承久の乱で初めて見られたもので後醍醐天皇の笠置山挙兵などで使われた由緒正しき旗。天皇が挙兵したときに掲げるこの旗は新政府軍を動かしている薩摩藩と長州藩を官軍にすることを示すものだったのです。
禁門の変以来朝敵となっていた長州藩。それが鳥羽伏見の戦いでついに逆転の立場を取るようになってしまい、旧幕府軍の勢いは大幅に停滞。警護を任されていた安濃津藩が新政府軍に寝返るなど旧幕府軍は大混乱に陥ってしまい、慶喜は心理的に追い詰められました。
鳥羽伏見の戦いの趨勢はこの錦の御旗によって決まったのです。
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慶喜の逃亡
こうして総崩れになり始めた旧幕府軍。総大将である徳川慶喜はこの状況を見てある決断を下します。なんと慶喜は戦っている最中の大坂城から脱出。単身海から江戸城へと逃亡したのです。
総大将が敵前逃亡するなんて事は前代未聞。この事は誰も信じませんでしたが、もぬけの殻となった慶喜の部屋には書類が散乱しておりいきなり逃げたということがよくわかります。
こうして指揮系統は大混乱に陥ってしまい、新政府軍にまともに太刀打ちできないようになってしまいついには総崩れ。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、各自江戸や自分の領地に撤退して鳥羽伏見の戦いは終わりを迎えたのです。
鳥羽・伏見の戦いの影響
この鳥羽伏見の戦いの敗戦は巻き返しを図っていた旧幕府軍の勢いを完全に失わせることとなり、この戦争に敗戦したことによって幕府復活は絶望的なものとなりました。
慶喜が大坂城から江戸へ逃亡したことは慶喜のキャリアに思いっきり傷をつけることとなり外国勢力はこれを見て中立を発表。旧幕府軍の強みであった外国からの支援はこれによって打ち切られてしまうことになりました。
また、鳥羽伏見の戦いで勢いに乗った新政府軍は最後の最後まで公儀合体を主張していた土佐藩を脅しによって屈服させ新政府に恭順。これを受けて親藩である尾張藩・福井藩や大藩などが次々と新政府に下ることに。
こうして集結した鳥羽伏見の戦い。ここから新政府軍は名実とともに『逆賊』となった慶喜がいる江戸へと進軍することになるのでした。