- 明日香村に存在する石舞台古墳とは
- 石舞台古墳の規模とその形状
- 石舞台古墳の現在の形状
- 石舞台古墳の主、蘇我馬子とは
- 蘇我氏とはどのような氏族だったのか
- 6世紀には代表的な士族になっていた蘇我氏
- 6世紀、大和朝廷では大王(天皇)の力は弱まり、有力豪族が実質支配していた
- 物部守屋と蘇我馬子の激突に勝った馬子が朝廷の権力を握る
- 崇峻天皇の暗殺は蘇我馬子がそそのかしたと言われている
- 蘇我馬子は推古天皇の擁立と甥の厩戸皇子を摂政へ
- 蘇我氏の支配に聖徳太子も憂慮して大王家としての立場を強める
- 蘇我氏の朝廷支配に反発した大王家
- 蘇我馬子の死去によって蘇我氏は変わった_聖徳太子の悲劇へ
- 蘇我蝦夷と入鹿の独裁による聖徳太子の孤立と孤独死
- 聖徳太子の遺産の遣隋使たちが帰国して中大兄皇子らを育てる
- 大化の改新によって蘇我一族は消滅、馬子の墓が暴かれた?
- 大化の改新によって蘇我蝦夷と入鹿親子は滅び、馬子の墓が暴かれた
- 飛鳥のロマンをたたえる石舞台古墳は痛ましい歴史を伝える
この記事の目次
明日香村に存在する石舞台古墳とは
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奈良県の奈良盆地の明日香(あすか)村島庄には石舞台古墳と呼ばれる巨石遺跡があります。大きな石が組み合わされ、上の天井石がとくに大きいために舞台のようだと言われていたため、石舞台と言われていました。しかし、考古学上の詳細な調査がおこなわれ、古墳だと分かったのです。この遺跡はもともと古墳の石室であり、何らかの墓施設を暴く行為がおこなわれ、墓の盛り土が取り除かれたものであることがわかりました。
そして、墓が暴かれた人物として浮かび上がったのが古代歴史上有名な蘇我馬子です。蘇我氏は、馬子の息子の蘇我蝦夷の時代に孫の入鹿とともに大化の改新で滅んでおり、その際に馬子の墓も暴かれたのではないかと推測されています。そのため、この石舞台古墳が必ず蘇我馬子の墓であったとは言いきれない面もありますが、ここでは、蘇我馬子の墓として石舞台古墳と馬子について見ていくことにしましょう。
石舞台古墳の規模とその形状
石舞台古墳は、奈良盆地にある高市郡明日香村の広い岡の上にある古墳で、7世紀初頭の築造となっています。当時日本の古墳規模は、古墳時代と言われた時代が終わっており、縮小していました。その縮小傾向にあった時期の古墳の中では、最大級の規模の古墳だったのです。盛り土がなくなっているため、古墳の形状ははっきりとはわかりません。しかし、一辺82mを越える壮大な方墳であったようです。それは、当時の天皇陵などよりも大きいと言えます。やはり、大和朝廷一番の実力者の墓にふさわしい存在感のある古墳と言えるでしょう。
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石舞台古墳の現在の形状
石室の形状は横穴式石室で、花崗岩で作られています。長さ7.7m、横幅4.7mで天井も高い石室内部だったのです。内部は11畳程度の広い部屋だったようですが、副葬品などは無くなっていました。約30個の巨石を組み合わせて作られており、その総重量は推定2,300トンに達すると言われています。石室外部の盛り土はなく、開放感あふれる景観になっていますので、見応えがありますよ。近くには、蘇我氏の館(旧跡)があったと言われている甘樫丘もあります。
現在の石舞台古墳の地域は、広い丘の上の上にあり、周辺は芝生で囲まれているのです。入場料金はなく、一般に開放され、休日などには、小学生、中高校生や親子連れがピクニックをしている姿が見られるでしょう。奈良への観光旅行では、明日香村散策の見どころ名所のひとつになっているので、おすすめスポットです。大人、女性、カップルにも楽しめるので、是非一度訪れる価値があると思います。
石舞台古墳の主、蘇我馬子とは
では、石舞台古墳の主と言われる蘇我馬子とはどのような人物だったのでしょうか。というよりも、蘇我氏そのものがどのような氏族だったのかが気になりますね。
蘇我氏とはどのような氏族だったのか
蘇我氏は、渡来氏族という説と奈良盆地南部葛城の土着の氏族という説があります。実際、その出自についてはよくわかっていません。神武天皇(いわれひこ)が大和に入って橿原で初代天皇(大王)として即位したときには、すでに葛城の豪族として存在していたという説があるのです。一方で、4~5世紀に渡来した氏族という説もあります。どちらにしても、大王家にとっては後から仕えるようになった氏族と言えるでしょう。
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6世紀には代表的な士族になっていた蘇我氏
しかし、蘇我氏は、6世紀には奈良盆地の大和朝廷内(大王家内)で、物部氏と朝廷内の権力を争う豪族になっていたのです。雄略天皇が崩御されて以降、大王家(天皇家)には有力な後継者がいなくなり、実質的に大和盆地の豪族たちが大王を担ぎ上げて権力争いをするようになっていました。丹波の里に隠れていた大王家の血を継ぐ子供を連れて来たこともあったと記紀には書かれているのです。
そのため、6世紀前半には後継者がいなくなり、越の国(こしのくに、今の新潟県の辺り)にいた応神天皇の5世の孫にあたる人物を連れてきて継体天皇として即位させています。このような豪族間の権力争いを勝ち抜いてきたのが蘇我氏と物部氏でした。聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我馬子の甥にあたります。
6世紀、大和朝廷では大王(天皇)の力は弱まり、有力豪族が実質支配していた
そのため、6世紀の大和朝廷では天皇(大王)は飾り物になり、実質的には蘇我氏と物部氏が政治を動かしていたのです。それはこの当時の天皇陵(墓)の規模が小型化したことでもわかります。逆に石舞台古墳のように有力豪族の墓は大きくなっていったのです。有名な高松塚古墳やキトラ古墳のように規模はともかく、内部装飾が施された贅沢な古墳も現れています。
いずれにしても、かつて大山古墳(仁徳天皇陵)のような巨大古墳は夢のまた夢になっていました。