- 石井・ランシング協定とは
- 石井・ランシング協定のおこなわれた背景
- モンロー主義によって遅れたアメリカの海外(アジア)進出
- アメリカの中国進出は遅れた
- 石井・ランシング協定のための会談実施
- 会談がおこなわれた場所は
- 石井・ランシング協定の内容
- 石井・ランシング協定の効果
- 第一次世界大戦後も石井・ランシング協定は有効だったが実質は違った
- 日英同盟を理由にした日本の参戦は誤り
- 中国政府は日本の要求を拒否、五・四運動がおこる
- 日本の石井・ランシング協定軽視に怒ったアメリカ
- ワシントン会議におけるアメリカの逆襲
- 幣原協調外交と軍部の反発
- 軍部の台頭と政党内閣の崩壊から日本は戦争一直線
- 条約や軍事同盟の脆さ
- 日米安保が石井・ランシング協定にならない保証はない
- 世界が平和になるのは石井・ランシング協定よりも互いの信頼と譲り合いが必要
この記事の目次
石井・ランシング協定とは
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1917年11月にアメリカの首都ワシントンD.C.で日本の特命全権大使石井菊次郎外務次官とアメリカ合衆国のロバート・ランシング国務長官の間で会談がおこなわれました。その結果として締結されたのが石井・ランシング協定です。世界史の教科書などにも載っていますが、その事実を知っている人はそれほどいません。第一次世界大戦中になぜこのような協議がおこなわれたのでしょうか。
それは当時のアメリカの世界における立場と日本の軍部主導による大陸進出の活発化に関わるものでした。とくに、日本の第一次世界大戦への参戦によりおこなわれた中国の青島(チンタオ)の占領と深い関係があったのです。
この石井・ランシング協定について見ていきます。
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石井・ランシング協定のおこなわれた背景
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アメリカは、19世紀前半におこなわれたモンロー宣言、すなわちヨーロッパ諸国との相互不可侵関係が外交の基本方針になっていました。そのため、欧州列強が植民地化している地域への進出や利権の拡大には消極的な姿勢をとってきたことから、アジアにおいても中国への進出や利権確保は遅れていたのです。
19世紀後半はアメリカは西部開拓時代で国内生産力を高める時期でしたが、19世紀末ごろにはアメリカの工業は発展し、余剰生産力を持つようになり、市場開拓が重要になります。
19世紀末にスペインとの戦争に勝利して、スペインが所有していたカリブ海諸国やフィリピンの植民地化には成功していました。しかし、アジアにおいてはイギリス、フランス、ドイツなどの列強が早くから進出しており、ロシアも南下政策をとっていたため、アメリカの進出機会は少なかったのです。そこに、20世紀に変わるあたりから、アメリカ自身が進出を狙って開国させた日本が進出姿勢を強めてきます。
それは、2004年の日露戦争に日本が勝って以降、顕著になり、財閥も形成されて中国に新たな市場を開拓しようとしていました。そのため、中国大陸への進出機会を狙っていたアメリカにとっては非常に警戒すべきことだったのです。
モンロー主義によって遅れたアメリカの海外(アジア)進出
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アメリカでは、モンロー宣言以降その外交方針をモンロー主義といい、アメリカの対外政策を縛っていたのです。それは、第一次世界大戦前後まで続いていました。第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議では各国の植民地を肯定し、ウィルソン大統領が提案した国際連盟に参加しなかったのもこのモンロー主義に影響されていたからです。
しかし、20世紀に入ってからのアメリカの生産力、経済力は、当時世界最大の大国であったイギリスを上回る勢いを見せ、国外での製品販売市場の確保は不可欠になっていました。とくに、第一次世界大戦では、日本と同様、戦場にはならず、ヨーロッパの生産力が落ちてしまいます。そのため、日米両国は、彼らの持っていたアフリカ、アジアへの輸出が大きく伸び、そのため生産力も大きく伸びていたのです。しかし、第一次世界大戦が終了してヨーロッパ列強の生産力が回復してくると新たな市場を開拓する必要性が高まりました。
そして、新たなターゲットとして見込んでいたのが人口の多い中国だったのです。
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アメリカの中国進出は遅れた
アメリカは、まだヨーロッパ諸国の力関係が定まっていない東アジア、とくに人口の多い中国大陸への進出が今後のアメリカの経済発展にとって不可欠になっていました。
しかし、中国大陸に対しては、日本、とくに日本陸軍(関東軍)が日清、日露戦争をきっかけとして進出を強めており、なかなかアメリカがつけ入る隙がなく、遅れていたのです。第一次世界大戦でも、日本が日英同盟を理由に、早くに連合国側に立ってドイツへの宣戦布告をして参戦しました。しかし、アメリカはモンロー主義で国内の反対が強く、参戦は遅れて機会を失っていたのです。
そのため、アメリカ政府内では日本の進出に対する警戒感が強まっていきました。
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