大正日本の歴史

アメリカの警戒から生まれた「石井・ランシング協定」とは?わかりやすく解説

中国政府は日本の要求を拒否、五・四運動がおこる

第一次世界大戦に参戦してから、アジアに対して余力のなくなっていたドイツ租借地の青島は簡単に日本軍の占領地となり、実質的に支配します。さらに日本政府は中国袁世凱政府に対してそれを認めるように21ヵ条の要求をおこなったのです。これに対しては、袁世凱以降の中国政府は拒否をし、中国国内でも反対運動がおこなわれました。しかし、結局は、日本はアメリカとの石井・ランシング協定によって実質的に植民地化を認められたのです。

日本の石井・ランシング協定軽視に怒ったアメリカ

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日本では政党内閣が確立して、1920年代になると外務大臣になった幣原喜重郎の基本政策として、協調外交が確立し、欧米諸国とは対立しない外交をおこないました。明治時代中盤までは日本を先進国として認めていなかった欧米諸国も、清国、ロシアに勝利して以降、日本を先進国として認めるとともに、警戒感が強くなっていたためです。

しかし、そのような幣原協調外交でも中国に対する姿勢は強硬でした。それをよいことに、関東軍は、満州での占領地を広げていったのです。

それを苦々しく見ていたのが、やはりアメリカでした。アメリカは、イギリスに日本を抑えないと中国はどんどん日本に侵略される恐れを説きます。

そして、第一次世界大戦の反省に基づき、列強各国は国際連盟を設立し、軍縮会議を何度も開催しますが、そのターゲットは日本の軍備拡張を抑えることにありました。

ワシントン会議におけるアメリカの逆襲

すなわち、1921年から始まったワシントン会議では、日英同盟は破棄されるとともに、中国の門戸開放政策が決まったのです。石井・ランシング協定はあくまでも日本とアメリカだけの中国の門戸開放政策だったものが、世界の列強全体で認められるようになったといえます。日本国内では、軍部が反対しましたが、協調外交を掲げる政府はこの決定を支持したのです。

幣原協調外交と軍部の反発

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また、同時におこなわれた軍縮会議では、日本の軍艦(戦艦など)の建造台数が大きく削られますが、これも政府は認めます。さらに、それ以降もロンドン軍縮会議でも、今度は戦艦以外の建造も抑えられてしまったのです。これには、日本陸軍だけでなく、海軍も幣原協調外交を基本方針にする政府に対して強い反感持つようになってしまいました

軍部の台頭と政党内閣の崩壊から日本は戦争一直線

その結果、世界恐慌が起こり、不況になると政府が国民から批判を受けるようになると、陸軍は政府のいうことを聞かなくなります。そして関東軍はつい暴走して盧溝橋事件を起こして満州事変を起こしたのです。それを認めようとしなかった犬養首相を殺害してついに幣原協調外交を基本にしてきた政党政治に終わりを告げることになります。

そして、それ以降は軍部内閣が中心となり、日本は戦争に向けて一直線に進んでいきました。

条約や軍事同盟の脆さ

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石井・ランシング協定は、表面的には問題にならなかったものの、関東軍は実質的に協定を破って中国への侵略を進めました。それに対してはアメリカはイギリスと組んで、日本の軍事力を削減しようとしており、実質的に協定は機能しなかったといえます。

このように、条約、同盟というものは、環境、状況が変われば、意味が無くなったり、廃棄されたりする例は世界で数えきれないくらいあるのです。

すなわち、大国間の同盟や条約は情勢が変われば無力化するということを常に頭に入れて考えるようにしなければなりません。

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