大正日本の歴史

アメリカの警戒から生まれた「石井・ランシング協定」とは?わかりやすく解説

石井・ランシング協定のための会談実施

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1916年11月の第一次世界大戦中に、日本はドイツに宣戦布告して、軍隊をドイツの粗借地のある中国の山東半島にある青島と南太平洋のドイツ植民地に派兵して占領しました。そして日本の加藤高明内閣は中国の袁世凱政府に対して21ヵ条の要求を出します。青島を日本の租借地として認めるなどの日本の利権確保のために要求したのです。

これには、中国国内でも大きな反対運動が起きています。当然、中国政府も拒否の姿勢を見せました。そして第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議で日本の権益が認められると、中国では五・四運動という反日運動がおこなわれたのです。

これに対して、アメリカは、中国東北部(満州)以外でも日本が領土を持つということは、アメリカの進出機会が削られることを意味するため、見過ごすことはできませんでした。すぐに日本政府(寺内正毅内閣)に対して、協議を呼び掛けたのです。

会談がおこなわれた場所は

石井全権大使とランシング国務長官の協議は、アメリカの首都ワシントンD.C.でおこなわれます。当時の日本とアメリカの関係は、第二次世界大戦後のロサンゼルス講和条約で日米安全保障条約が結ばれ、その改訂によって日米同盟が成立した現在とは大きく違っていました。中国大陸での利権の争いのライバルになっていたのです。

両国とも当時はヨーロッパが戦場になり、生産力が大きく低下していたため、列強のアフリカ、アジアの彼らの植民地に多くの製品を輸出して国内生産力を高めていました。しかし、戦争が終わり、欧州列強の生産力が回復すれば、その市場は手放さなければならないため、国際的に新たな販売市場の開拓が急務になっていたのです。

その際に大きなターゲットとなるのが中国でした。とくに、日本は国内に資源が少なく、大陸の石炭、石油などの資源が豊富な中国大陸は絶好のターゲットでした。

石井・ランシング協定の内容

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協議は、互いの利害がぶつかるだけに、容易にはまとまりませんでした。それでも、互いに妥協点を探った結果、次のような内容で協定が締結されました。主なポイントは次のようなものでした。

・日本のその時点まで獲得している利権、租借地は認める

・ただし、それ以上の日本の領土拡張は認めない

・中国に対する門戸解放、機会均等政策の支持

なお、秘密協定として、第一次世界大戦に乗じて中国に新たな特権を求めることはしないということが合意していました。すなわち、1914年にドイツへの宣戦布告によって獲得した粗借地や利権は認めるものの、それ以上の要求はしないことに両国は同意したのです。さらに、中国の市場への進出はどこの国でも可能である(門戸開放j、機会均等)ことを認めあったといえます。

石井・ランシング協定の効果

基本的には、日本は公式には中国に対して要求をしなくなりますが、協定以前の青島などの権益はそのまま残り、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でも日本の権益は認められたのです。

第一次世界大戦後も石井・ランシング協定は有効だったが実質は違った

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この石井・ランシング協定の結果、日本はそれ以降表面的には中国に対して新たな要求はしませんでした。しかし、中国東北部(満州)においては、関東軍(日本陸軍)の師団の勢力拡大は続きます。また、日本政府も欧米諸国に対して協調外交を展開していましたが、中国に対しては要求はしないものの、強固姿勢を崩さなかったのです。

すなわち、日本国は正式には中国に対して公式な要求は出さなかったものの、実質的には協定を守らず、実質的に満州での占領地拡大を図っていました。

日英同盟を理由にした日本の参戦は誤り

日英同盟は、どちらかの国が戦争をおこなっても中立を守るという条約であり、もともと日英同盟には日本が同盟を盾にして第一次世界大戦に参戦する理由はありませんでした。イギリスは、日本の参戦に同意したものの、あくまでも日英同盟によるものではなく、戦争を有利に進めることにどうしたに過ぎなかったのです。そして日本の中国進出に対してはアメリカと同じくイギリスも苦々しく思っていました。

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