ドイツ、西ヨーロッパを席巻する
第二次世界大戦における西部戦線は、前半期と後半期に分けられるものです。前半期はドイツがフランスや西欧諸国に侵攻し席巻した戦い、そして後半期はドイツが連合軍の反攻を受けて守勢に回った戦いになります。まず前半期を解説していきましょう。第一次世界大戦の塹壕戦とは違い、第二次世界大戦における戦場は機動力が勝敗を分けることになりました。
まやかしの戦争
1939年9月に始まった第二次世界大戦は、ドイツがポーランドへ侵攻したことにより始まりました。同時にイギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告し、6年にも及ぶ大戦の開幕ベルが鳴ったのです。
しかし何度かの海戦はあったものの、ポーランド戦役以降はさしたる戦いもなく、長期にわたって双方にらみ合いの状況が続いていました。ドイツ軍がノルウェーを占領したことくらいでしょうか。
実はこの時期、水面下では和平交渉が行われていました。イギリス・フランスはドイツに対する宥和政策を取り続けていて、多少なりともドイツの権益を認めればポーランドから撤退するのではないか?と考えていました。ましてやフランスは第一次世界大戦で戦場となったこともあり、戦争に対するアレルギーが政府・国民ともに蔓延していたといえるでしょう。
いっぽうドイツ側も、当面はイギリス・フランスと事を構えることに慎重で、ポーランド占領の既成事実さえ認めてくれれば、条件次第で和平を結ぶことも十分可能だったのでした。
しかしポーランドと同盟を結んでいたイギリス・フランスが見捨ててしまうのは信義に反すること。ましてやポーランド政府はイギリスに亡命しているのです。結局のところ和平交渉は暗礁に乗り上げ、いよいよドイツのフランス侵攻を招く結果となったのでした。
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フランス侵攻作戦
半年にも及ぶ沈黙の後、ドイツの総統ヒトラーはイギリス・フランスを屈服させるために大胆な作戦を決行に移します。それがファル・ゲルブ(黄色作戦)というものでした。
オランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルクス三国へ侵攻してイギリス・フランス連合軍を牽制しつつ、防備の薄い国境地帯であるアルデンヌを別動隊が突破して楔を打ち、背後へ回り込んで包囲するというものでした。
1940年5月、易々と国境地帯を突破したドイツ軍は瞬く間にベネルクス三国を降伏に追い込み、イギリス・フランス主力部隊と対峙します。そのいっぽうでアルデンヌを突破した戦車部隊は驚くべきスピードで連合軍の背後に進撃し、早くも10日足らずで海岸線に到達したのです。
あれよあれよという間に完全に包囲された連合軍が撤退するためには、海へ逃げるしか手段はありません。そこでダンケルク付近に取り残された30万人以上の兵士たちを救うためにダイナモ作戦が発動されました。延べ1週間にもわたる撤退作戦で大部分の兵士たちの脱出に成功し、それは「ダンケルクの奇跡」と呼ばれることになりました。
いっぽう北フランスの連合軍主力を取り逃がしたドイツ軍ですが、次に鉾先を変えてパリ方面へ進撃を開始。すでに戦意を失っていたフランス軍はすでに敵ではなく、6月14日にはパリが無血占領され、フランスは休戦協定の調印を余儀なくされてしまったのです。
ドイツ軍そしてイギリス・フランス連合軍は戦力こそ拮抗していたものの、結果はドイツ軍の圧勝に終わりました。ドイツ側の卓越した作戦指導もさることながら、状況の変化に応じて戦術を変えられる柔軟な思考が勝利を呼んだといえるでしょう。いっぽう連合軍側は、第一次世界大戦の頃から進歩のない頭の固い戦略眼が敗北を招いたといえるでしょうか。
いずれにしてもヨーロッパ大陸に敵のいなくなったドイツが次に目指すのが、イギリス攻略だったのです。
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幻に終わったイギリス侵攻作戦
フランス攻略で自信を得たヒトラーが次に目指したのがイギリスを屈服させることでした。ヨーロッパ大陸とは海を隔てた島国であるため、その攻略は非常に難しいものでした。何より世界でもトップクラスといえるイギリス海軍の存在は無視できず、対抗するためにはまず、制空権の確保が重要だったのです。
やがて1940年8月からイギリス本土に対する爆撃が始まりました。当初は制空権の獲得が目的だったため、イギリス本土の航空基地やレーダーサイトなどが狙われることになりました。しかし8月24日にドイツ空軍がロンドンを誤爆したことでドイツの首都ベルリンへの報復爆撃を招いてしまいます。
この報復に怒ったヒトラーの鶴の一声で、ロンドンをはじめとするイギリス諸都市に対する無差別爆撃へと目標が切り替わったのでした。その結果、多くの都市が被爆し、焼かれ、多くの人が亡くなりました。それでもイギリス国民は挫けず、戦闘機の増産に勤しみます。
いっぽうのドイツ空軍も戦いが長引くにつれて弱点を露呈するようになりました。ドイツ空軍の爆撃機は戦略爆撃を想定した構造になっておらず、多くの爆弾を積むことができません。さらに爆撃機を護衛するはずの戦闘機の航続距離が極端に短く、長くイギリス領空に留まることができませんでした。
そのため思うような戦果を挙げられないいっぽうで損害も多く、費用対効果は驚くほど悪いものでした。また熟練した搭乗員の損失も大きく、撃墜されたものの帰るに帰れず、イギリス側の捕虜になる者も増大していきました。
状況が膠着したままで、いっこうにイギリス上陸作戦の目途が立たないことに業を煮やしたヒトラーは、9月19日ついに作戦準備の中止を下命。イギリスへの侵攻作戦は幻に終わったのです。