ドイツナチスドイツヨーロッパの歴史

EUやNATO設立の端緒となった「西部戦線」とは?歴史系ライターが詳しく解説

連合軍の大反攻はじまる

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イギリスへの侵攻をあきらめたドイツにとって次なる敵はソ連でした。しかし得意の電撃戦をもってしてもロシアの大地は広すぎ、やがて戦線の拡大と補給線が伸び切っていくに従ってドイツ軍は疲弊し、戦力を低下させていきました。ドイツとソ連との戦いを東部戦線と呼びますが、戦力不足に陥ったドイツの弱点を突くかのように連合軍の反攻が始まります。

北アフリカでの反撃

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1942年の段階で、まさにドイツは限界まで膨らんだ風船のように戦線を拡大していました。ヨーロッパだけでなくソ連の奥深くまで進攻し、カスピ海のあたりまで到達していました。また北アフリカにも軍を進めてチュニジアやエジプトにおいてイギリス軍と死闘を繰り広げていたのです。そうなった以上はどこもかしこも戦力不足に陥っており、危うい綱渡りをしながらドイツは戦っていたといえるかも知れません。

前年にはドイツの同盟国日本がアメリカと戦争状態に入っていたため、アメリカが連合軍側として参戦しており、その豊富な工業力をもって連合軍を支えていました。北アフリカで戦っていたアフリカ軍団(ドイツ・イタリア軍)がエジプト攻略をあきらめて守勢に回っていた頃、連合軍の最初の反攻がついに始まったのです。

1942年11月、モロッコやアルジェリアなど複数の地点に上陸した連合軍は、重要拠点を占領しつつ前進を開始。ドイツ側に味方していたフランス軍を降伏させ、次第にアフリカ軍団を追い詰めていきました。各地で激戦が展開されるものの、チュニジアに押し込められたアフリカ軍団は1945年5月に降伏します。

ヒトラーはこの間、戦力不足のためにまともな援軍すら送れず、「死ぬまで戦え!」と命令するだけでした。北アフリカを失陥したことにより、ドイツ・イタリアはこの次に「柔らかい下腹を蹴られる」ことになるのです。

イタリアの「柔らかい下腹」を蹴り上げる

北アフリカが連合軍の手に落ちたことにより、地中海の制空・制海権はほぼ連合軍のものとなりました。その直後、ついに連合軍は枢軸国陣営の一角であるイタリアへの侵攻を企てます。

1943年7月、ブーツ(イタリア半島)に蹴られる石ころのような形をしたシチリア島に連合軍が上陸。わずか1ヶ月で島を制圧しました。事態を重く見たイタリア国王はじめ代表議会は、連合国との講和を交渉するため主戦派のムッソリーニを軟禁。新しくバドリオが政権を担いました。

しかしイタリアにとって有利な講和条件を模索するうちに、ドイツ軍がイタリア本土に展開。ムッソリーニの身柄も解放されてしまい、イタリアにおける平和は破綻してしまいます。ムッソリーニは北部に傀儡政権を樹立し、いっそうの抵抗を見せることになりました。

そしてイタリア本土に上陸した連合軍はドイツ軍の頑強な抵抗に遭い、両軍ともに疲弊していく中で、実際に戦闘が終結するまで1年半以上掛かることになるのです。

連合軍、ヨーロッパ大陸へ進攻

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第二次世界大戦を通じて、ドイツとの戦争の矢面に立っていたのがソ連でした。ソ連首相スターリンは連合国に対して、新しい戦線を築いてドイツからの圧迫を分散し、フランスを解放すべきだと訴えていましたが、ようやくそれが実現する時が来たのです。ノルマンディー上陸作戦に端を発する西部戦線第2ラウンドを解説していきましょう。

ノルマンディー上陸作戦

ドイツ側はずっと以前から、来るべき連合軍の進攻に対して「大西洋の壁」と呼ばれる防衛線を海岸線沿いに構築していました。しかし、それらを有効に活用するためには強力な空軍兵力と、陸軍の予備兵力がなければ用を為しません。しかしドイツ軍にはその双方がすでに不足していたのです。

1944年6月、ノルマンディー沖を真っ黒にするほどの大量の艦船が現れ、ついに北フランスへの上陸作戦が始まりました。連合軍の欺瞞作戦によって、全く違う地区での上陸を想定していたドイツ軍側は慌てふためきます。強力な艦砲射撃や爆撃によってドイツ軍のトーチカや防衛拠点が次々に沈黙していき、ついに兵員・物資陸揚げのための橋頭保が築かれました。

ドイツ軍将兵はなおも果敢な抵抗を見せるも、肝心の機甲部隊を内陸部に配置したことが仇になったのです。海岸に沿って展開していれば違った結果になったはずですが、ヒトラーの承認なしには機甲部隊を動かせないため、機動的な戦闘すらできません。

ようやくヒトラーの出撃命令が下って反撃を開始するも、時すでに遅し。完全に制空権を握られた展開では、移動する戦車は航空機によって狙い撃ちにされ、さしたる戦果も挙げられないまま次々に壊滅していきました。ドイツ軍は拠点を死守するしかなくなり、7月中旬~下旬にかけて要衝のカーンとサン・ローを突破されてしまいました。

この時点においてドイツ軍の戦線は崩壊し、8月に決死の反撃作戦が行われるもあえなく失敗。下旬にはドイツ軍部隊の多くがファレーズ周辺において包囲殲滅され、西部戦線におけるドイツ軍戦力は消滅してしまったのです。

東西から挟み撃ちを受けるドイツ

ノルマンディー上陸作戦の直後、ドイツにとって予想もしない出来事が起こりました。1944年6月22日、ソ連軍が沈黙を破って史上空前の大攻勢を掛けてきたのです。「バグラチオン」と名付けられたソ連側の作戦は兵員125万人、戦車4千輌以上、航空機5千機というもので、過去の世界史を振り返っても最大級の兵力でした。

戦線の中央部を守っていたドイツ中央方面軍は、この大攻勢をまともに食らって、わずか数週間で壊滅。戦線に大きな穴が空いてしまいました。また戦線の南北を問わず次々にソ連軍大部隊が侵攻し、東部戦線もまた崩壊の危機に瀕したのです。結局、ドイツが占領していた地域はソ連によってほぼ取り返され、ドイツの首都ベルリンへと迫る結果となりました。

いっぽう西部戦線でも連合軍は順調に進撃を続け、8月下旬にはパリが解放され、秋にはドイツ国境へ迫る勢いになっていました。この頃のドイツ軍は東西に敵を抱えて慢性的な兵力不足に陥り、一部で勇戦敢闘するものの、じりじりと押され続けていました。

また陸上部隊を守るべき戦闘機も、ドイツ本土空襲の防衛に回されて、戦場でほとんど見ることはできなくなっていました。それでも戦争をやめようとしないヒトラーがいる限り、ドイツは破滅への道を歩んでいたといえるでしょう。

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明石則実