中国の歴史

世界最大の木造建築群「紫禁城(故宮)」とは?歴史や見どころをわかりやすく解説

ひれ伏す家臣たちを前に、幼い皇帝が駆け出していく広大な広さの広場と巨大宮殿……1987年公開の映画「ラストエンペラー」のワンシーンをご記憶の方も多いはず。舞台となったのは、中国の首都・北京にある紫禁城。現在は「故宮」と呼ばれています。今回はユネスコ世界文化遺産にも登録されている紫禁城にスポットをあて、歴史や見どころなどについてわかりやすく解説します。

いつの時代のもの?誰が建てた?紫禁城の歴史とは

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紫禁城(しきんじょう)とは15世紀初頭に南京から北京に遷都された後、清王朝滅亡までおよそ500年に渡って中国王朝の宮殿として使われた巨大建造物。長い間、歴代皇帝たちを支え、中国統一王朝の移り変わりを見つめてきました。いつ頃、誰の手によって建てられたのものなのか、まずはその歴史から振り返ってみたいと思います。

「元」から「明」へ・巨大帝国が築いた宮殿

紫禁城は、元王朝(モンゴル帝国)の初代皇帝・フビライ・ハンが築いた宮殿が基礎になっています。

フビライ・ハンは元王朝を築くにあたり、13世紀半ばから20年以上の歳月を費やし、大都(現在の北京)に冬営地として巨大な都市を造りました。広大な敷地の四方を城壁で囲んだ城塞都市。周囲の長さは28㎞以上もあったといわれています。

ユーラシア大陸のほとんどを制圧した巨大帝国は、14世紀後半になって内部分裂を繰り返し、衰退。元を北に追いやった明が中国統一王朝となります。

明王朝第3代皇帝・永楽帝(えいらくてい)は、即位後すぐに、南京からの遷都を決行。引っ越し先はフビライが築いたあの大都です。

永楽帝は1406年から20年近い歳月をかけ、大都の中にあった宮殿を破壊し、その上に宮殿を築かせました。これが紫禁城です。

「紫禁城」という名前は「紫宮」と「禁地」を重ね合わせたものだといわれています。

「紫宮」とは地上の紫微垣(しびえん)。紫微垣とは古代中国の天文学や占いにも登場するもので、創造主である天帝が住まう都にある宮殿のこと。ここに、庶民の立ち入りを禁じた「禁地」という言葉を組み合わせた「紫宮禁地」という言葉がもとになっているのだそうです。

清王朝の皇宮に……歴史に翻弄される紫禁城

1644年、明王朝滅亡時に紫禁城は焼失しましたが、その後成立した清王朝によって再建されます。その後も、紫禁城は清の皇帝たちの宮殿として使われ続けました。

皇帝たちの手によって、紫禁城はたびたび造営され、その姿を変えていきます。特に乾隆帝は宮殿の大改修工事や離宮の建築など、かなりの規模の造園を繰り返し、財政を圧迫したのだそうです。

1900年に起きた義和団の乱の際には、イギリスやフランスなど八か国連合軍に占拠され、清朝末期の動乱の舞台となった紫禁城。清朝最後の皇帝・溥儀は2歳で皇帝の座に就き、紫禁城で暮らす最後の皇帝となりました。

1912年、辛亥革命によって中華民国が成立。およそ270年に及んだ清王朝が滅び、紫禁城も中華民国の管理下に置かれます。

北京政変を経て故宮博物館・世界文化遺産に登録

中華民国が成立した後も、最後の皇帝溥儀は数年間、紫禁城への居住を許されていました。しかしそれも1924年まで。北京政変の後、旧王朝一族は紫禁城から退去します。

明け渡された紫禁城をどうするべきか。中華民国でも様々な議論が湧きました。

500年もの間、統一王朝の象徴であり続けた紫禁城は「故宮(昔の宮殿)」と名前を新たにしました。

巨大な建物は、フランスのルーブル美術館のように博物館として使用することになり、1925年、新たな一歩を踏み出します。

1987年、「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一部として、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。

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