いつの時代のもの?誰が建てた?紫禁城の歴史とは
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紫禁城(しきんじょう)とは15世紀初頭に南京から北京に遷都された後、清王朝滅亡までおよそ500年に渡って中国王朝の宮殿として使われた巨大建造物。長い間、歴代皇帝たちを支え、中国統一王朝の移り変わりを見つめてきました。いつ頃、誰の手によって建てられたのものなのか、まずはその歴史から振り返ってみたいと思います。
「元」から「明」へ・巨大帝国が築いた宮殿
紫禁城は、元王朝(モンゴル帝国)の初代皇帝・フビライ・ハンが築いた宮殿が基礎になっています。
フビライ・ハンは元王朝を築くにあたり、13世紀半ばから20年以上の歳月を費やし、大都(現在の北京)に冬営地として巨大な都市を造りました。広大な敷地の四方を城壁で囲んだ城塞都市。周囲の長さは28㎞以上もあったといわれています。
ユーラシア大陸のほとんどを制圧した巨大帝国は、14世紀後半になって内部分裂を繰り返し、衰退。元を北に追いやった明が中国統一王朝となります。
明王朝第3代皇帝・永楽帝(えいらくてい)は、即位後すぐに、南京からの遷都を決行。引っ越し先はフビライが築いたあの大都です。
永楽帝は1406年から20年近い歳月をかけ、大都の中にあった宮殿を破壊し、その上に宮殿を築かせました。これが紫禁城です。
「紫禁城」という名前は「紫宮」と「禁地」を重ね合わせたものだといわれています。
「紫宮」とは地上の紫微垣(しびえん)。紫微垣とは古代中国の天文学や占いにも登場するもので、創造主である天帝が住まう都にある宮殿のこと。ここに、庶民の立ち入りを禁じた「禁地」という言葉を組み合わせた「紫宮禁地」という言葉がもとになっているのだそうです。
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清王朝の皇宮に……歴史に翻弄される紫禁城
1644年、明王朝滅亡時に紫禁城は焼失しましたが、その後成立した清王朝によって再建されます。その後も、紫禁城は清の皇帝たちの宮殿として使われ続けました。
皇帝たちの手によって、紫禁城はたびたび造営され、その姿を変えていきます。特に乾隆帝は宮殿の大改修工事や離宮の建築など、かなりの規模の造園を繰り返し、財政を圧迫したのだそうです。
1900年に起きた義和団の乱の際には、イギリスやフランスなど八か国連合軍に占拠され、清朝末期の動乱の舞台となった紫禁城。清朝最後の皇帝・溥儀は2歳で皇帝の座に就き、紫禁城で暮らす最後の皇帝となりました。
1912年、辛亥革命によって中華民国が成立。およそ270年に及んだ清王朝が滅び、紫禁城も中華民国の管理下に置かれます。
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北京政変を経て故宮博物館・世界文化遺産に登録
中華民国が成立した後も、最後の皇帝溥儀は数年間、紫禁城への居住を許されていました。しかしそれも1924年まで。北京政変の後、旧王朝一族は紫禁城から退去します。
明け渡された紫禁城をどうするべきか。中華民国でも様々な議論が湧きました。
500年もの間、統一王朝の象徴であり続けた紫禁城は「故宮(昔の宮殿)」と名前を新たにしました。
巨大な建物は、フランスのルーブル美術館のように博物館として使用することになり、1925年、新たな一歩を踏み出します。
1987年、「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一部として、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。